やはり義経はチンギス・ハーンだった ~上~
還暦パパが住んでいる田舎は、名物がなぜか「味付けジンギスカン」。タマネギ、リンゴ、酒、醤油そのほかモロモロ(このモロモロが企業秘密)で作ったタレに、ラムやマトンを漬け込む。3社ほどの大手(?)が味でしのぎを削っている。ジンギスカン=チンギス・ハーン。漢字で、「 成吉思汗 」と書く。モンゴルとの関係、チンギス・ハーンとの関係は…ない!
この味付けジンギスカンを焼く鍋は、「ジンギスカン鍋」…鍋底が盛り上がって…というか、かぶとの形をした鉄鍋。この鍋の形の由来は、チンギス・ハーンが、戦の最中、羊肉を焼いて食べる(いわば烤羊肉:カオヤンロウ)時、戦なので鍋など持ち歩いていないので、鉄かぶとを鍋代わりにした。・・・というもっともらしい話もできている。盛り上がったところで肉を焼き、低い鍋の周囲にタレが溜まるのでそこで野菜を焼く(「煮る」といった方が適当かな)。
チンギス・ハーンは、実は義経だった。という説がある。真剣に取り合う人はいないかもしれませんが、還暦パパとしては、チンギス・ハーン=義経説を支持したい。心情として・・・。
なぜか?生涯が悲劇すぎる。せめて、生き延びさせたいという、まあ、還暦的心情なんですけれども。
大活躍の時期もありましたよね。宇治川、一ノ谷、屋島、壇ノ浦!その後平穏な日々で暮らしたのであれば、めでたしめでたしなのですが、その後が悲運の連続。何とかしてやりたい!昔の人(平家物語を読んだ人)も、そう考えたのでしょう。「義経記」では、自刃したはずの義経が実は生きていた。
「義経記」は、平家物語の後、200年以上も経ってから出されたものですよね。となると、室町時代。「能」が隆盛を極めた時代なわけで・・・。この200年の間に、どぶろくを作るとき発酵して、沸沸とアブクが立つように(何もそんな比喩つかわなくても…)、たくさんの義経に関する伝説・伝承が形成されたのでしょうね。それらをまとめて、「義経記」ができた。民衆の想像から創造されたものと言うことが出来るでしょう。あかでみっくだなあ!ひらがなで書くと、「垢出見苦」って感じになるなあ。
十字架ではりつけにされたはずのキリストを復活させたように、どこかで稀代の英雄である義経を生かしておきたかった。義経は、死なず、北へ向かった。北という漢字は、2人の人間が背を向けて走ろうとするもの。つまり逃げるということ。人は、逃げるとき北へ行くものなのですねえ。「敗北」という熟語もあります。負けて北へ逃げるから「敗北」。「敗南」とは言いませんね。義経は南へ逃げ、ハワイでカメハメハ大王になったというのもまあおもしろいのですが・・・。
伝説をつなぎあわせると、東北から北海道へ渡らせてしまった。さらに、モンゴルへ渡らせ、相撲取りにしてしまった。ではなく、チンギス・ハーンにしてしまった。
義経は、1189年(文治5年)4月29日(30日という説もあり)、奥州平泉高館の持仏堂で自刃した。首は塩づけにして、43日後に幕府に差し出され、首実検となったそう…いくら塩づけでも43日後では・・・つまり、はっきり義経だと判定出来る状態ではなかった。どっこい生きていたという話も、そこら辺から急に真実みを帯び始める!飛脚の足で7日間の距離を43日間かけた?ニセの首がばれないようにする画策(腐らせてしまう)ととらずしてどう説明しますか?では、義経は、どういう経路をたどって、モンゴルへ渡ったか?伝説があるところを単につないで、北へ向かうと、次のようになります。
平泉を脱出・・・東へ向かい、(束稲山、物見山、姥石峠を通り)気仙沼へ・・・ここから北上(赤羽根峠、遠野、笛吹峠を超えて)宮古へ・・・ほぼ海岸伝いに(岩泉、田野畑、普代、久慈と進み)八戸へ・・・八戸から北西に向かった。八甲田山を越えたか迂回したか。義経は、どちらを選択したでしょうか?私は、陸奥湾へ出たと思いますが…そして津軽半島へ出て竜飛へ。平泉を出てから7年かかった。竜飛では、石川さゆりさんが歌ってました。「御覧あれが竜飛岬北のはずれと、見知らぬ人が指をさす・・・」義経もきっと口ずさんだでしょうねえ、「津軽海峡冬景色~~~」バカなこと書いていないで、早く蝦夷に渡らせなければ。う~ん。続きは明日にします。明日は、北海道上陸。そして、なんとしてもモンゴルへ行かせます。(つづく)
還暦パパが住んでいる田舎は、名物がなぜか「味付けジンギスカン」。タマネギ、リンゴ、酒、醤油そのほかモロモロ(このモロモロが企業秘密)で作ったタレに、ラムやマトンを漬け込む。3社ほどの大手(?)が味でしのぎを削っている。ジンギスカン=チンギス・ハーン。漢字で、「 成吉思汗 」と書く。モンゴルとの関係、チンギス・ハーンとの関係は…ない!
この味付けジンギスカンを焼く鍋は、「ジンギスカン鍋」…鍋底が盛り上がって…というか、かぶとの形をした鉄鍋。この鍋の形の由来は、チンギス・ハーンが、戦の最中、羊肉を焼いて食べる(いわば烤羊肉:カオヤンロウ)時、戦なので鍋など持ち歩いていないので、鉄かぶとを鍋代わりにした。・・・というもっともらしい話もできている。盛り上がったところで肉を焼き、低い鍋の周囲にタレが溜まるのでそこで野菜を焼く(「煮る」といった方が適当かな)。
チンギス・ハーンは、実は義経だった。という説がある。真剣に取り合う人はいないかもしれませんが、還暦パパとしては、チンギス・ハーン=義経説を支持したい。心情として・・・。
なぜか?生涯が悲劇すぎる。せめて、生き延びさせたいという、まあ、還暦的心情なんですけれども。
大活躍の時期もありましたよね。宇治川、一ノ谷、屋島、壇ノ浦!その後平穏な日々で暮らしたのであれば、めでたしめでたしなのですが、その後が悲運の連続。何とかしてやりたい!昔の人(平家物語を読んだ人)も、そう考えたのでしょう。「義経記」では、自刃したはずの義経が実は生きていた。
「義経記」は、平家物語の後、200年以上も経ってから出されたものですよね。となると、室町時代。「能」が隆盛を極めた時代なわけで・・・。この200年の間に、どぶろくを作るとき発酵して、沸沸とアブクが立つように(何もそんな比喩つかわなくても…)、たくさんの義経に関する伝説・伝承が形成されたのでしょうね。それらをまとめて、「義経記」ができた。民衆の想像から創造されたものと言うことが出来るでしょう。あかでみっくだなあ!ひらがなで書くと、「垢出見苦」って感じになるなあ。
十字架ではりつけにされたはずのキリストを復活させたように、どこかで稀代の英雄である義経を生かしておきたかった。義経は、死なず、北へ向かった。北という漢字は、2人の人間が背を向けて走ろうとするもの。つまり逃げるということ。人は、逃げるとき北へ行くものなのですねえ。「敗北」という熟語もあります。負けて北へ逃げるから「敗北」。「敗南」とは言いませんね。義経は南へ逃げ、ハワイでカメハメハ大王になったというのもまあおもしろいのですが・・・。
伝説をつなぎあわせると、東北から北海道へ渡らせてしまった。さらに、モンゴルへ渡らせ、相撲取りにしてしまった。ではなく、チンギス・ハーンにしてしまった。
義経は、1189年(文治5年)4月29日(30日という説もあり)、奥州平泉高館の持仏堂で自刃した。首は塩づけにして、43日後に幕府に差し出され、首実検となったそう…いくら塩づけでも43日後では・・・つまり、はっきり義経だと判定出来る状態ではなかった。どっこい生きていたという話も、そこら辺から急に真実みを帯び始める!飛脚の足で7日間の距離を43日間かけた?ニセの首がばれないようにする画策(腐らせてしまう)ととらずしてどう説明しますか?では、義経は、どういう経路をたどって、モンゴルへ渡ったか?伝説があるところを単につないで、北へ向かうと、次のようになります。
平泉を脱出・・・東へ向かい、(束稲山、物見山、姥石峠を通り)気仙沼へ・・・ここから北上(赤羽根峠、遠野、笛吹峠を超えて)宮古へ・・・ほぼ海岸伝いに(岩泉、田野畑、普代、久慈と進み)八戸へ・・・八戸から北西に向かった。八甲田山を越えたか迂回したか。義経は、どちらを選択したでしょうか?私は、陸奥湾へ出たと思いますが…そして津軽半島へ出て竜飛へ。平泉を出てから7年かかった。竜飛では、石川さゆりさんが歌ってました。「御覧あれが竜飛岬北のはずれと、見知らぬ人が指をさす・・・」義経もきっと口ずさんだでしょうねえ、「津軽海峡冬景色~~~」バカなこと書いていないで、早く蝦夷に渡らせなければ。う~ん。続きは明日にします。明日は、北海道上陸。そして、なんとしてもモンゴルへ行かせます。(つづく)