アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

やはり義経はチンギス・ハーンだった ~下~

2008年06月21日 | Weblog
還暦パパ やはり義経はチンギス・ハーンだった ~下~                

 義経主従は、竜飛から蝦夷(北海道)にわたり、松前に上陸した。そして、海岸伝いに北上。檜山支庁乙部町には、義経伝説のほか、義経を追う静御前が身を投げた姫川伝説もあります。北海道内には、およそ120箇所の義経ゆかりの地があります。義経は、ひたすら日本海側を北上し続けたのではなく、太平洋側である日高管内へも行っています。平取町には、義経神社、義経公園、義経資料館があり、町民に親しまれています。
 ふと気がつくと還暦パパは、「希望として、義経がチンギス・ハーンだったらおもしろいな」ということで、書き始めたのに、いつの間にか確信になり、いいように味付けしてしまっておりましたぁ!ここまで来たらこの流れで最後まで行きます。
 札幌に着いた義経は、これまで家来に持たせていた大判、小判を手稲山に埋めました。蝦夷地では必要がなかったことと、家来が疲労の極致に達していたからです。これが、手稲山の義経埋蔵金伝説となりました。断言かよ!数年前、実際に埋蔵金を探していた人がマスコミで話題になりました。そしてとうとう、稚内(ワッカナイ)に到着。「ワッカナイ?何処にあるのかワッカナイ(分からない…コレ、還暦パパが得意としているボケです)」現在、日本の最北端が稚内の宗谷岬です。宗谷岬近くの海岸には、「義経試し切りの岩」があります。宗谷岬から樺太(サハリン)へ。北上して間宮海峡を渡り、ロシアに上陸。アムール川を舟で上った。チチハル(満州)を経由して、とうとう、at last!モンゴルへ入ったのでありました。
 整理しますと・・・
1159年 義経生まれる
 1162年 チンギス・ハーン生まれる。但し、はっきりしたことは分か      っていない。1159年だったとしてもおかしくない。
 1180年 弁慶と五条の天神の前で出会う(6月17日今の時期ですよ)
 1184年 静(御前)と出会う
 1188年 義経、平泉脱出
 1189年 義経自刃(これは、一般的に言われていることで、実際は、      前年のうちに平泉を出ている。というか出た!断言!)
1195年 義経、蝦夷地(北海道)上陸
 1199年 義経、モンゴル到着 
 1227年 チンギス・ハーン没。義経だとすると、68歳。
 どうでしょう!信憑性は・・・まあ、個人の受け取り方の問題でしょうかねえ。
 シーボルトは、凄い人で、日本関係の著書が多数あります。その中に「日本(1~6巻)」という著書があります。一巻400ページを越える大作で、訳書は7~8,000円もします。シーボルトは、その「日本」で、義経=チンギス・ハーン説を信じているとしています。さらに、この事実に世の歴史家諸君はもっと目をむけよとも書いています。
 還暦パパは読んでいませんが、小谷部全一郎という方が、『成吉思汗ハ源義経也』という本を書いています。本気なんだなあ・・・。
 あと・・・チンギス・ハーンは、漢字表記が、「成吉思汗」。チンギス・ハーンの発音に合わせて漢字を当てはめたのですが、なぜこの四つの漢字にしたのか?別の漢字でも十分当てはめられたのに?
 義経は、妻の静御前と吉野で分かれました。静御前は、白拍子(しらびょうし:平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞、それを演ずる女性)でした。白拍子の衣装は、「水干(すいかん:平安装束で、いわば簡素な服)」で、通称「汗(かん:サンズイは水を表し、干は日照りですから、雨の日も晴れの日も着られるということでしょう)」です。もうおわかりですね。「吉成りて汗に思う」つまり、「成吉思汗」。静御前への思いをその名に託し、抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一し、中国北部、中央アジア、イランなどを次々に征服してモンゴル帝国を築き上げたのでありました。あ~、また断定してしまったぁ。