我が家にテレビが初めて来た日のことは、
実は覚えていない。
物心ついた時はテレビはあった気もする。
当時、テレビ放送が行われたチャンネルは少なく、
覚えている時期は3つだけ。
NHKと教育テレビと、SBS(静岡放送)だけだった。
その後、テレビ静岡ができたが、これがUHFで、
確か、特殊なアンテナかブースターが必要だった気がする。
まあ、そんな時代だから、見る番組も限られており、
野球と相撲は本当に憧れのスポーツだった。
だからこそ、
巨人・大鵬・卵焼き というフレーズができたのだろう。
大鵬さんの相撲はどちらかといえば守りの相撲。
相手の押しにも揺さぶりにも揺るがず、
大きな体を使った安定した相撲。
子供にとっては面白みのない決まり手の寄り切りが多かった。
そう言う意味ではつまらないという印象が強い。
当時、私が一番好きな力士は若浪。
平幕の時1回だけ優勝した力士。
細身でパワーがないがうっちゃりが多く、
子供にはうっちゃりはスリリングな決まり手。
古き良き時代だった。
こういう個性的な力士が少なくなり、
体の大きな力士ばかりで、
珍しい決まり手が減って、
そういうものが相撲の魅力を失くし、
今の相撲界があるのでは?
と個人的には思っている。
私自身もう何年も中継を見ていないし、
若い頃は少なくとも大相撲ダイジェストでチェックしていたが、
最近は見る気も湧いてこない。
それは私だけの問題でもないのでは?そんな気もする。
どこまで相撲界が立て直せるのか?
期待はしている。
若浪 順(わかなみ じゅん、1941年3月1日-2007年4月16日)は、茨城県猿島郡(現在の坂東市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。最高位は東小結(1968年5月場所)。本名は冨山 順(とみやま じゅん)。現役時代の体格は178cm、103kg。得意技は左四つ、寄り実家は農家で土地相撲の大関を務めた父に似たのか、幼少の頃から怪力で、小学生の時に米俵を持ち上げ兄弟達にも驚かれていた。中学時代、当時人気絶頂にあった若ノ花に憧れて力士になることを志し3年生の時に立浪部屋に入門した。だが1957年(昭和32年)1月の新弟子検査では体重不足で不合格、次の3月に目零しで合格させてもらって初土俵。新十両昇進は1961年(昭和36年)3月場所、新入幕は1963年(昭和38年)5月場所でのことである。体重は1度も100kgに達したことがない(ただし公称は103kg)という小兵で「ちびっ子」と呼ばれていたが持ち前の怪力を活かした吊りが得意で、右上手を取れば体重200kgと自分の倍以上もある見山さえも吊り上げようとした程である。所謂『目まで吊る』と形容される、相手を高々と吊り上げて土俵外まで運ぶ豪快なものだった。同じく吊りを得意とする明武谷や陸奥嵐との対戦は常に好取組として人気があった。対戦成績は対明武谷6勝9敗、対陸奥嵐6勝8敗。本人は「吊り上げれば相手は反撃できないから有利だけど、相手も吊りが得意だと吊り上げようとして逆に吊り出されたりもした」と言っていた。
十両2場所目に右足首を複雑骨折、針金を入れてどうにか治したが、直ってもしばらく右足の感覚が失われたままで、右の雪駄が脱げても分からず爪を剥がされても痛くない程だったという。
東前頭8枚目にあった1968年(昭和43年)3月場所、12勝2敗で千秋楽を迎える。ここまで2敗は大関豊山・関脇麒麟児(のち大麒麟)とあわせて3人であった。千秋楽、まず若浪が勝って13勝2敗。ところが後2人の2敗力士が揃って負けたため優勝が決まった。天皇賜杯制度ができてから最軽量の幕内最高優勝力士である。周囲も豊山か麒麟児の優勝と予想、まさか平幕の若浪が優勝するなどとは思っていなかったため驚いたという。場所の結果を報道する『相撲』誌も、優勝力士のカラー写真を事前に用意しておくことができずに、賜杯を抱いた若浪の白黒写真が表紙を飾った(1968年当時、日曜に撮影したカラー写真を金曜発売の月刊誌の表紙に使用することはできなかった)。翌場所は小結に返り咲いたが2勝13敗に終わった。これは前場所優勝した力士が翌場所に皆勤した成績では史上1位のワースト記録である。(後に貴闘力、旭天鵬も記録。)その後、1969年9月場所では十両でも優勝、幕内優勝経験者が下位で優勝する初の例となった(のち、多賀竜も記録)。また、この場所では横綱・大関との対戦を経ずに優勝を決めているが、横綱大関戦なしで平幕優勝しているのは若浪が今のところ最後である(過去には、1939年1月の出羽湊、1953年5月の時津山、1957年11月の玉乃海、1961年5月の佐田の山、1964年7月の富士錦らが記録している)。さらに幕内に復帰してから、1971年3月場所では小結に返り咲き、粘りを見せた。
吊り、うっちゃり。引退後は、年寄・大鳴戸から玉垣を襲名した。
実は覚えていない。
物心ついた時はテレビはあった気もする。
当時、テレビ放送が行われたチャンネルは少なく、
覚えている時期は3つだけ。
NHKと教育テレビと、SBS(静岡放送)だけだった。
その後、テレビ静岡ができたが、これがUHFで、
確か、特殊なアンテナかブースターが必要だった気がする。
まあ、そんな時代だから、見る番組も限られており、
野球と相撲は本当に憧れのスポーツだった。
だからこそ、
巨人・大鵬・卵焼き というフレーズができたのだろう。
大鵬さんの相撲はどちらかといえば守りの相撲。
相手の押しにも揺さぶりにも揺るがず、
大きな体を使った安定した相撲。
子供にとっては面白みのない決まり手の寄り切りが多かった。
そう言う意味ではつまらないという印象が強い。
当時、私が一番好きな力士は若浪。
平幕の時1回だけ優勝した力士。
細身でパワーがないがうっちゃりが多く、
子供にはうっちゃりはスリリングな決まり手。
古き良き時代だった。
こういう個性的な力士が少なくなり、
体の大きな力士ばかりで、
珍しい決まり手が減って、
そういうものが相撲の魅力を失くし、
今の相撲界があるのでは?
と個人的には思っている。
私自身もう何年も中継を見ていないし、
若い頃は少なくとも大相撲ダイジェストでチェックしていたが、
最近は見る気も湧いてこない。
それは私だけの問題でもないのでは?そんな気もする。
どこまで相撲界が立て直せるのか?
期待はしている。
若浪 順(わかなみ じゅん、1941年3月1日-2007年4月16日)は、茨城県猿島郡(現在の坂東市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。最高位は東小結(1968年5月場所)。本名は冨山 順(とみやま じゅん)。現役時代の体格は178cm、103kg。得意技は左四つ、寄り実家は農家で土地相撲の大関を務めた父に似たのか、幼少の頃から怪力で、小学生の時に米俵を持ち上げ兄弟達にも驚かれていた。中学時代、当時人気絶頂にあった若ノ花に憧れて力士になることを志し3年生の時に立浪部屋に入門した。だが1957年(昭和32年)1月の新弟子検査では体重不足で不合格、次の3月に目零しで合格させてもらって初土俵。新十両昇進は1961年(昭和36年)3月場所、新入幕は1963年(昭和38年)5月場所でのことである。体重は1度も100kgに達したことがない(ただし公称は103kg)という小兵で「ちびっ子」と呼ばれていたが持ち前の怪力を活かした吊りが得意で、右上手を取れば体重200kgと自分の倍以上もある見山さえも吊り上げようとした程である。所謂『目まで吊る』と形容される、相手を高々と吊り上げて土俵外まで運ぶ豪快なものだった。同じく吊りを得意とする明武谷や陸奥嵐との対戦は常に好取組として人気があった。対戦成績は対明武谷6勝9敗、対陸奥嵐6勝8敗。本人は「吊り上げれば相手は反撃できないから有利だけど、相手も吊りが得意だと吊り上げようとして逆に吊り出されたりもした」と言っていた。
十両2場所目に右足首を複雑骨折、針金を入れてどうにか治したが、直ってもしばらく右足の感覚が失われたままで、右の雪駄が脱げても分からず爪を剥がされても痛くない程だったという。
東前頭8枚目にあった1968年(昭和43年)3月場所、12勝2敗で千秋楽を迎える。ここまで2敗は大関豊山・関脇麒麟児(のち大麒麟)とあわせて3人であった。千秋楽、まず若浪が勝って13勝2敗。ところが後2人の2敗力士が揃って負けたため優勝が決まった。天皇賜杯制度ができてから最軽量の幕内最高優勝力士である。周囲も豊山か麒麟児の優勝と予想、まさか平幕の若浪が優勝するなどとは思っていなかったため驚いたという。場所の結果を報道する『相撲』誌も、優勝力士のカラー写真を事前に用意しておくことができずに、賜杯を抱いた若浪の白黒写真が表紙を飾った(1968年当時、日曜に撮影したカラー写真を金曜発売の月刊誌の表紙に使用することはできなかった)。翌場所は小結に返り咲いたが2勝13敗に終わった。これは前場所優勝した力士が翌場所に皆勤した成績では史上1位のワースト記録である。(後に貴闘力、旭天鵬も記録。)その後、1969年9月場所では十両でも優勝、幕内優勝経験者が下位で優勝する初の例となった(のち、多賀竜も記録)。また、この場所では横綱・大関との対戦を経ずに優勝を決めているが、横綱大関戦なしで平幕優勝しているのは若浪が今のところ最後である(過去には、1939年1月の出羽湊、1953年5月の時津山、1957年11月の玉乃海、1961年5月の佐田の山、1964年7月の富士錦らが記録している)。さらに幕内に復帰してから、1971年3月場所では小結に返り咲き、粘りを見せた。
吊り、うっちゃり。引退後は、年寄・大鳴戸から玉垣を襲名した。