古い体文協の小冊子の中に
寄贈本紹介というコーナーがある。
かなり古いやつを遡って何気なく見たら、
「道元禅師・今を生きることば」という本が紹介されていた。
その紹介文です。
「真理は一つ、切り口の違いで争わぬ」
この一言は余語翠巌老師がおりにふれておっしゃったことばである。
中略
例えば円筒形の茶筒があるとする。
縦に切れば切り口は矩形になり、
横に切れば円形となり、斜めに切ったら楕円となるように、
切り口は違うが茶筒そのものはたった一つ。
そこに全ての人がかきねを取り払って手を結ぶ広場があるはず。
さらに一歩進めて「切り口しか見ることが出来ないんだ」
という自分への自覚がないと自分の切り口を相手に押し付けたり、
当然違う相手の切り口に訂正を強要したくなる。
我々はどんなに逆立ちしても、
貧しい自分の経験の範囲でしか
物を考えることはできないのである。
自分の持ち合わせているモノサシの長さ、
受け皿の大きさしかいただけないのである。
笑い話がある。
信州の山の中で炭焼きをして暮らしを立てている人と、
佐渡の海で漁をしている人が、浅草の観音様をお詣りし、
一つの宿に泊まった。お日様がどこから出るという話になり、
1人は「山から出て山に入る」と言って譲らない。
一人は「海から出て海に入る」と言って譲らない。
そこで番頭さんに仲裁を頼んだところ、
番頭さん曰く「屋根から出て屋根に入る」と。
笑い事ではない。いかに立派そうな哲学をかざしてみても、
我々は所詮この域を出ることが出来ないのだということを、
何気ない日常生活の些細な事に至るまで
毎日これをやっているのだということを、
よくよく自覚せねばならないと思ったことである。
さらに一歩進めて
「切り口の違いは必要あって生まれたもの。
互いに尊重しあい、学びあってゆこう」という姿勢が望ましい。
私も時に謙虚さを忘れている自分に気がつく。
自分が一番正しい。
自分だけが正しい。
そう思っている自分はいないか?
少し反省してしまった。