全米オープンで快挙が生まれた。
錦織選手がベスト8へ進出。92年ぶりとのこと。
拍手を送りたい。
清水善三選手はもともとは軟式上がりの選手。
いろいろなエピソードを持つ、世界的選手。
錦織選手も追いつき追い越して欲しいものだ。
ちなみに清水選手のウィキは。
1920年(大正9年)6月のウィンブルドン選手権大会で、清水はいきなり「チャレンジ・ラウンド」(前年優勝者への挑戦権決定戦)の決勝まで勝ち進んだ。
当時はテニス・トーナメントの方式も現在とは大きく異なり、前年優勝者は無条件で決勝に行き、そこで1回戦から勝ち上がる選手(チャレンジ・ラウンドの優勝者)と決勝戦を戦う「オールカマーズ・ファイナル」(All-Comers Final)方式を採用していた。そのチャレンジ・ラウンド決勝戦で、清水は当時の世界ナンバーワン選手、ビル・チルデン(アメリカ)に 4-6, 4-6, 11-13 の激戦で敗れたが、この大活躍で硬式テニスを日本に紹介した。チャレンジ・ラウンド決勝で清水を破ったチルデンは、オールカマーズ・ファイナルにて1919年度の優勝者ジェラルド・パターソン(オーストラリア)に勝ち、大会初優勝を飾った。翌1921年のウィンブルドンではチャレンジ・ラウンド準決勝でマニュエル・アロンソ(スペイン)に敗れ、2年連続のチャレンジ・ラウンド決勝進出を逃した。
1921年に、日本チームは男子国別対抗戦「デビスカップ」にも初出場を果たす。「アメリカン・ゾーン」よりオールカマーズ・ファイナルに進み、日本はアメリカに0勝5敗で敗れたが、清水はここでもチルデンに健闘している。(2セット・アップ=先に2セットを先取した状態から、チルデンに3セットを連取されて逆転負けした。)これらの成績により、清水は当時の世界ランキングで、1920年は9位、1921年は4位にランクされた。
こうして清水の活躍は、同郷(群馬県)の後輩に当たる佐藤次郎を始めとする後続の日本男子テニス選手たちに大きな刺激を与えた。海外でも清水は、その礼儀正しさから「ミスター・シミー」、にこやかな笑顔から「スマイリー・シミー」という愛称で呼ばれたという。1927年に選手生活を引退した。
選手引退後は後進の育成に尽力し、1954年にデビスカップの日本代表監督に就任する。初遠征ではメキシコに赴き、そこで日本代表チームは「2勝3敗」でメキシコ・チームに敗れたが、その帰途で清水はアメリカに立ち寄り、前年(1953年6月5日)に死去した旧友チルデンの墓参に行った。
1965年2月に脳内出血で倒れ、1977年4月12日、大阪にて長逝。86歳没。
「やわらかなボール」が放たれたのは、1919年ウィンブルドン選手権のオールカマーズ決勝(現在の準決勝)である。対戦相手のチルデンが足を滑らせて転倒、その時にゆっくりとしたボールを返したという。チルデンが態勢を立て直し、返球がエースに。「ヘイユー!ルック!!」とチルデンがラケットで指した所、観客がスタンディング・オベーションで清水に向かって拍手をしていた。結果としてチルデンが勝ち、二人が会場を後にしたものの、その後しばらく拍手が続いたという。
錦織「うれしい」終了は午前2時26分 史上最も遅く終わった試合に並ぶ
スポニチアネックス 9月2日(火)16時7分配信
錦織「うれしい」終了は午前2時26分 史上最も遅く終わった試合に並ぶ
全米オープンテニス第8日は1日、ニューヨークのビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニスセンターで行われ、第10シードの錦織圭(24=日清食品)は男子シングルス4回戦で第5シードのミロシュ・ラオニッチ(23=カナダ)をフルセットの激闘の末に4―6、7―6、6―7、7―5、6―4で下し、初の準々決勝進出を果たした。日本男子の8強入りは1922年の清水善造以来92年ぶり。
試合時間は4時間19分。試合が終わったのは現地時間の2日午前2時26分、史上最も遅く終わった試合に並び、そして1922年の清水善造以来の8強入り。錦織は「そういう記録を打ち立てられるのはうれしい」と喜びつつ「気を抜かず、次も勝てるように頑張りたい」と感傷に浸ることなく言い切った。世界の頂点を狙う24歳にとって記録的勝利も通過点でしかない。