鳥取城のある久松山(きゅうしょうざん)
関ヶ原以降の築城された近世の城は山麓部分にありますが、戦国時代の山城は山頂にあり山上ノ丸とよばれています。
ここからは本格的な登山となるので、相応の装備をしましょう。
トラッキングシューズ、少なくとも底の厚いスニーカーは必需です。
登山用ストックもあった方が良いし、飲み物も用意しましょう。
さあ、出発!
しかし、
いきなり!
・・・・・・!
でも大丈夫。
この日のために東急ハンズで熊鈴を買っておきました。
こんな山道を登ります。
え!まだ一合目?
肩で息をし、汗でぐっしょりとなりながら、休み休み30分
やっと本丸が見えてきました。
山上ノ丸の縄張りです(現地案内板)
本丸
奥の一段高いところが天守櫓です。
車井戸
天守櫓跡
鳥取市街を見下ろしてみました。
鳥取砂丘も見えます。
市街とは反対方向の眺め
山と谷に囲まれた天然の要塞です。
二の丸
さらに奥にある三の丸
本丸下に設けられた出丸跡
残念ながら近づけませんでした。
せめてズームで石垣を撮ってみました。
鳥取の渇え殺し(かつえごろし)
1581(天正8)年、羽柴秀吉は毛利方である鳥取城の攻略を開始しました。
難攻不落なこの城に対して、得意の兵糧攻めを画策します。
補給路を断つことはもちろんですが、若狭の商人に因幡国中の買い占しめさせ相場を上げてしまいました。
さらに、城下の町民・農民に対し、いやがらせや乱暴を働きました。
これらの人々を盛んに城中に逃げ込ませ、その分だけ兵糧の消費が早くなるわけです。
じきに城内の食糧は尽きました。
飢えた人々は馬や家畜はもちろん、虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体、壁土、わらじまで食べ尽くしたそうです。
実は秀吉の鳥取攻めの前に本来の城主である山名豊国はさっさと逃げ出してしまったのです。
かわりに吉川経家が臨時城主としておさめていたのです。
経家はこの凄惨たる状況に、兵の命と引き換えに自決、開城して鳥取の渇え殺しは終結したのでした。
【おまけ】
小学校の頃から、鳥取砂丘へ行ってみたかったものです。
やっと、その機会が巡って参りました。
しかし、登山でほとほと疲れたため、高台にある展望台から見て済ませようと思ったのです。
よくみると、展望台と砂丘をむすぶリフトがあるじゃないですか。
けっきょく、リフトに乗り、
砂丘へやってきました。
おお!乗りたい!
子どもの頃からのイメージが勝手に大きくなり、地平線のかなたまで砂だとおもっていましたけど、さすがに日本にはそんなところはなかったようです。