1578(天正6)年、丹後を制圧した細川幽斎(藤孝)は宮津城に加えて、交通の要所であった田辺(現在の舞鶴)に田辺城を築き、丹後経営の中心としました。
そして隠居後は、子の忠興を入城させました。
現在、田辺城跡は舞鶴公園となっております。
こうしてみると、本丸(赤いところ)部分に相当するようです。
建築物は城門(左)と櫓(右)のみで、どちらも復元されたものです。
本丸城門
ふるさと創生事業を活用して1992(平成4)年に整備されました。
二階は田辺城資料館となっています。
隅櫓 、1930(昭和15)年に復元されました。
彰古館(展示室)として使われています。
隅櫓から見た風景。
展示されていた模型
これを見ると、復元された城門の位置が本来とは違っていることがわかります。
復元された本丸井戸跡
本丸の石垣
土居址とありますが、何かよくわかりません。
1600(慶応5)年、関ヶ原の戦いが始まると細川忠興は東軍側として参戦しました。
すると、石田三成は留守を守っていた父幽斎に対して1万5000もの大軍をけしかけます。
細川軍の主力は関ヶ原に行ってしまっており、守る兵は500人足らずしかいません。
幽斎は他の持ち城を焼き払い、田辺城に籠城を決めます。
少ない手勢で良く持ちこたえましたが、圧倒的多数の前に落城は時間の問題でした。
そこで、幽斎は朝廷に使者を送ります。
幽斎は戦国武将一の教養人で、古今伝授を受けていました。
この当時、古今和歌集の解説は、師匠から弟子へ秘伝の形で継承されていました。
幽斎が亡くなるとその伝承者が一人途絶え、資料も灰となりかねないのです。
おどろいた後陽成天皇はすぐに包囲を解くように勅命を下した。
まさに芸は身を助けたのでした。
幽斎が籠城の際に朝廷に送った歌が刻まれた碑がありました。
古へも今もかはらぬ世の中に 心のたねをのこすことの葉
ゆえにこの庭園は心種園と名付けられています。
天守台跡
一部残されている二の丸の石垣
右は線路、左は史跡・・・・道路を拡張するのも大変です。
公園内の遊具も天守閣風
城で使われていたと思われる石がごろごろ転がっていました。
細川忠興の小倉転封後は、京極氏がこの地を治め田辺藩を設立します。
1668(寛文8)年、京極氏が豊岡に移封となった後、牧野親成が入封しました。
以後200年余、10代にわたり廃藩に至るまで田辺藩主として在封しました。
牧野家紀恩碑
田辺城
京都府舞鶴市南田辺15-22