橋本屋吉次郎電子日誌

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美濃路を歩く その8(西枇杷島~新川)

2015-02-05 | 街道を歩く


西枇杷島の美濃路です。
けっこう頻繁に車が通ります。 


昔の街並みの名残が感じられます。


うどん屋さんに寄ってみます。


きしめん定食 680円
「近年、きしめんの需要が激減」とニュースで言っていました。
もちもちでびろんびろんとしたワンタンにも似た食感ですが、腰があるつるつるした麺に人気が移っているようです。


屋根神様


ここにもそれらしいのが・・・


美濃路はここらで少し折れ曲がって北西に向かいます。


【瑞正寺】
江戸初期に千本松原(名古屋市中区橘町)から移転した刑場がこのあたりにありました。


山門


土器野の宝塔

 


清正公堂
加藤清正は熱心な法華の信者であっので、清正公(せいしよこ)さんと奉称し,所願成就を祈る信仰がおこりました。

 


【新川】
新川にかかる新川橋を渡ります。
 


新川は、1784(天明4)年から開削が始まった運河です。
この辺りはたび重なる庄内川の氾濫によって甚大な被害を被ってきました。
そこで、寺野村庄屋 丹羽義造は窮状の打開を尾張藩に訴えたが、かえって閉居処分の 処分を受けてしまいました。
庄内川は名古屋城の外堀の役目をしていたので対岸川の堤防をかさ上げするとお城側が切れる可能性が生まれるのです。

1779(安永8)年洪水の惨状を視察した藩主宗睦は、 庄内川の治水事業を命じました。
勘定奉行水野千之右衛門は、庄内川に沿った新しい川の開削を計画し、天明四年(1784)に 一斉に着工しました。
1787(天明7)年、四十万両の巨費を投じた新川が完成し 、流域住民は水禍を免れることができたのです。

 

ただし、それから210年ほど後の2000(平成12)年、東海豪雨によって再び、この地が被害を受けました。大変悲しい話です。


 



古い新川橋の欄干
津島街道道標を兼ねています。
津島街道はここから 分かれ、甚目寺観音、木田、勝幡を経て津島神社に至ります。

 

 


新川開削本陣跡は、


UFJ銀行になっていました。


このあたりの美濃路
 

ミニ屋根神様?
 

うだつも見られます。



  (続きます) 

 

コメント (4)
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