山口から、津和野を経て日本海側へやってきました。
途切れ途切れの山陰自動車道(無料区間)を使ったりもしたのですが、浜田までクルマで3時間15分かかりました。
途切れ途切れの山陰自動車道(無料区間)を使ったりもしたのですが、浜田までクルマで3時間15分かかりました。
まずは、続日本100名城スタンプをもらいに、

浜田市浜田城資料館
所在地: 浜田市殿町83番地246
開館時間: 09:00~17:00
休館日: 月曜日(祝日の場合は翌日),祝日の翌日,年末年始(12/29~1/3)
入館料: 無料
2019(令和元)年に開館したと聞いていたのですが、なんだか古い建物・・・
実は、御便殿といって、明治40(1907)年、皇太子(後の大正天皇)が山陰を行啓された際、浜田での宿泊施設として、建築されたものです。
近代和風建築物で、御殿と呼んでも差し支えのない規模と構造をもっており、建物自体が大変価値ある上に、展示物もしっかりしており、入場無料には思えない資料館でした。
浜田城に関するVTRも大変参考になりましたが、これはYou Tubeでも見ることができます。

浜田市浜田城資料館
所在地: 浜田市殿町83番地246
開館時間: 09:00~17:00
休館日: 月曜日(祝日の場合は翌日),祝日の翌日,年末年始(12/29~1/3)
入館料: 無料
2019(令和元)年に開館したと聞いていたのですが、なんだか古い建物・・・
実は、御便殿といって、明治40(1907)年、皇太子(後の大正天皇)が山陰を行啓された際、浜田での宿泊施設として、建築されたものです。
近代和風建築物で、御殿と呼んでも差し支えのない規模と構造をもっており、建物自体が大変価値ある上に、展示物もしっかりしており、入場無料には思えない資料館でした。
浜田城に関するVTRも大変参考になりましたが、これはYou Tubeでも見ることができます。

浜田護国神社の駐車場まで車で登りました。

浜田護国神社
かつては、浜田城の二の丸でした。

木口小平之像
日清戦争で亡くなられましたが、「死んでもラッパを離しませんでした」と戦前の修身の教科書にとりあげられました。

護国神社脇から本丸に向かいます。

ちなみに復元CGだと・・・

浜田城は、1619(元和5)年、古田重治が浜田藩成立にともない、築城しました。
焔硝蔵があった郭


もともとは津和野藩庁の門でしたが、1870(明治3)年の浜田県設置にともない、その県庁正門として使われ、1967(昭和42)年に移築されました。

もちろん枡形になっています。


出丸


二の門




一の門

排水溝の跡


本丸

三重櫓がここに建っていました。

報国忠勇の碑が置かれ、その上に砲身と弾丸が設置されていたが、1943(昭和18)年に供出されたてしまいました。

本丸から見える外ノ浦
いろいろ城をまわってきましたが一二を争う美しさでした。

港の様子
1866(慶応2)年、第二次長州征伐がおこり、浜田藩は長州藩側の大村益次郎が指揮する軍にことごとく撃破されました。
藩主松平武聰は浜田城を放棄して浜田藩の飛地だった美作国鶴田へ逃れ、浜田は長州藩軍に占領されて廃藩となりました。


本丸

三重櫓がここに建っていました。

報国忠勇の碑が置かれ、その上に砲身と弾丸が設置されていたが、1943(昭和18)年に供出されたてしまいました。

本丸から見える外ノ浦
いろいろ城をまわってきましたが一二を争う美しさでした。

港の様子
1866(慶応2)年、第二次長州征伐がおこり、浜田藩は長州藩側の大村益次郎が指揮する軍にことごとく撃破されました。
藩主松平武聰は浜田城を放棄して浜田藩の飛地だった美作国鶴田へ逃れ、浜田は長州藩軍に占領されて廃藩となりました。
天気予報では、ちょうど雨にハマっていたのですが、
幸いにも外れたようです。
幸いにも外れたようです。

所要時間:45分
このあと松江まで移動して、ビジネスホテルに宿泊。
山陰遠征1日目は終了です。
城址には何もないと思って、ワタシは神社までしか行きませんでしたが、結構立派な石垣が残っていたんですね?!
三十数年前に、木口小平像を見にこの神社には訪れています。
その時に、城跡の存在は気づいていたかどうかはわからないです。まぁ気づいても「城跡だったんだぁ」で終わっていたと思います。
新しくできた浜田城資料館は比較的わかりやすいところにあるので、まずそこに行くと迷わずに済むと思います。