43番【大悲山 岩屋寺】知多郡南知多町大字山海字間草109番地
もともと天台宗の寺院でしたが、1949(昭和24)年独立、現在は尾張高野山宗の総本山として末寺20、教会79を擁しているそうです。
山門
立派な水盤舎
本堂
ご本尊の横に大師様が祀られています。
納経所はこの中です。
あせて番外霊場 奥之院の納経印もいただけました。
阿弥陀堂
経蔵
薬師堂
袴腰鐘楼
客殿
稲荷社
境内にはうどん店もありました。
裏山には大師ヶ岳八十八ヶ所霊場という霊場が設けられています。
文化年間(1804~1818年)、中興の祖である豪潮によって開眼された五百羅漢像が斜面にびっしりと置かれています。
しばらくミニ登山です。
山頂には弘法大師37歳のときの大きな立像ありました。
次は番外霊場の奥之院です。
岩屋寺から300mほど山の中に入っていくのですが、途中に「中の院」がああり、そこには
案内板によれば、軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦で戦死した名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達だそうです。
めいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものだそうです。
戦後、進駐軍が取り壊しを命じましたが、僧侶が「国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない。あれを日本人の手で壊すことはできない。どうしても壊すというなら我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろう」と頑張り壊されずに済んだということです。
手を合わせざるをえませんでした。
番外霊場【岩屋山 奥之院】知多郡南知多町大字山海字城洲62-2番地
43番霊場「岩屋寺」からは300mほど徒歩で行けますし、大師ヶ岳霊場から向かう道もあります。
山に向かう細い道ですが、駐車場も用意されています。
山門
開山堂を背にして祀られている寿妙上人像
突然目の前にあらわれる朱塗りの三重の塔
じつは、コンクリート製
三重塔の横に建つ納骨堂
本堂
岩山に巌窟があり、それをおおう形になっています。
808年弘法大師は、ここで百カ日の護摩修行をして自身の像を岩窟に納めたそうです。
また、ここは知多四国で唯一のおこもり行所です。
三日三晩参篭して毎朝のお掃除で身を清めるのです。
さすがに、そこまではしませんでしたが・・・
くるま六地蔵
以前、篠島で見かけた「くるま六地蔵」がここにも置かれていました。
女人堂
現在では、本堂も女人禁制ではないようです。
霊感の強い人には近寄りがたい雰囲気が漂っています。
この人たちが安心して見ておられる国になっているでしょうか。ひとりひとりが自問するべきではないでしょうか。今日はまじめに働こうと思った次第です。
自ら命を賭して守ろうとした国の行く末をじっと見ながら・・
この記事でとりあげた2箇所は特に厳かさを強く感じました。
兵士像は正直不気味さも感じました。しかし、一人一人の表情を見ているとそんな思いも消えてしまいました。タケさんがおっしゃるようにこの人数分の人生があり家族があったわけですよね。また戦争で犠牲になったひとはここにいる人の何万倍、何十万倍もいるわけで、こんなことを繰り返してはいけませんね。
全く同感です。
この兵士像は建立当時より名古屋市千種区にあったのですが、平成7年にこの地に移転されたそうです。静かな地で安らかに過ごしていただきたいと思います。
そうなんです。ひとりひとりお顔がちがうのです。生前のお写真をもとに作られたのでしょうね。よく見ると皆若いのですね。幼さが残るお顔をされています。彼らの犠牲の上に現在があることを再確認しなければいけませんね。
粛々と進行していますねぇ~
霊場と言われるだけあってどこも神聖な感じがします
兵隊さんの像はやはりインパクトがありますねぇ~
ご両親が先だって英霊となられた我が子の為、出征前に仮祝言だけを交わした許婚の為、いろんな人生が有ったのだと思いますが、ちょっと怖い・・・
今の平和な日本があるのは、このような方々の犠牲の上にあると思うと、手を合わせずにはいられませんね。合掌
>僧侶が「国のために死ぬということはアメリカも
>日本も変わりはない。あれを日本人の手で壊すことは
>できない。どうしても壊すというなら我々をこの場で
>銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろう」
>と頑張り壊されずに済んだということです。
このような話を伺わないと、興味本位で石像写真を撮って
終わっちゃいますよね。
でも、1体1体丁寧に職人さんが作られているのが、
写真からもこちらに伝わってきます。合掌