デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




没後50年 藤田嗣治展に行ってきた。藤田嗣治作品の大きな展示会に足を運んだのは幸運にも二度目である。前回は10年近く前だったように思う。

あたかも悟った風に、渡る世間に鬼はないとかこの世に生きている人の中に英雄はいないとか、思ったりすることもたまにあるのだが、日本の現代美術の分野で個人的に英雄視したくなるのは藤田嗣治(レオナール藤田)かなぁと思う。二度の大戦の時期を生き抜いたのみならず、生前故国から誤解され冷静な評価を受けることが多くなかったものの、自分のやりたいことをやり自分のスタイルを確立し、孤独にしかし自由人としてその生涯を駆け抜けていったのが藤田嗣治であるというイメージを私は抱いてしまう。私のレベルに引きずりおろしていうならば、周囲に迎合せず同調圧力に屈しないチャラ男であっても出過ぎた杭は打ちようのないくらいの才能と努力で、やることはきちんとやっている人であり、日本に埋もれている有象無象が抱く自由への希望の星が、私にとっての藤田嗣治という人なのだ。
もちろん画家の人生は波乱万丈で毀誉褒貶がついてまわるし、画家自身も晩年に至って自身の人生を嘆くこともあったことが近年の新資料から分かっているので、自由に生きる人生のありようというのは一鑑賞者の思い描く勝手なイメージにしか過ぎないことも分かっている。
ただ、今回の大規模な回顧展の作品は画家の生涯を予習して鑑賞したところで、そこまで沈鬱な気持ちにならない内容だったことに正直ホッとした。自画像の中で存在感を放つドヤ顔の猫には愛くるしいものを覚えたし、画家本人が好んだ風景や室内を描いた作品にパリでの生活のエッセンスが凝縮されていると思えた。私個人は画家の部屋やフルール河岸から描かれたノートルダム寺院がとても気に入った。
意外だったのは藤田嗣治の旅をする画家としての一面だ。今回の展ではそこにも目を見張った。ヨーロッパ、南米、中米、日本と本当にいろいろな時代と土地の人々や風俗を垣間見せてくれるぜいたくな気分を味わえたように思う。

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15世紀のマリア像、ど派手な色で素人が修復=スペイン(時事.com)

修復どころか新たなる芸術かもしれない(笑)。それにしても偶然なんだろうがまたスペインでとは…。

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ジャン=ルイ・ドゥマルヌ「街道沿いの農場」(1800年代)

プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画に行ってきた。12年前のプーシキン美術館展から数えて私は三度目(二度目は5年前)の鑑賞だが、毎回楽しませてくれる内容だなぁと改めて思う。
見どころについては公式サイトで十分に紹介されているし、実際そこで紹介されている作品は目を見張るものがあった。私の好きなクロード・ロランとユベール・ロベールの作品も来ていてうれしかった。さらに12年前にも来ていたラファエリの「サン=ミシェル大通り」とまさか再会できるとは思わなかったので驚きも伴われているとは有り難かった。


フランソワ・ブーシェ「農場」(1752年)



クロード=ジョセフ・ヴェルネ「パンフィーリ邸の庭園、ローマ」(1749年)

ドゥマルヌ「街道沿いの農場」、ブーシェ「農場」、ヴェルネ「パンフィーリ邸の庭園、ローマ」は行ったことの無い所とはいえ、旅先のイメージをくすぐるような感じがした。また貴族たちをモデルに神話や風俗を描くことの多いイメージのあるブーシェが農場の絵を描いていることも意外だった。
今回も美術全集には載っていないが質の高い作品をプーシキン美術館は所蔵していることが分かる展という感じだった。

(画像を上げておいてなんですが、私のクセのある色になってしまうカメラを通した色合いよりも実物の方がはるかに美しいので、実物は決して拙画像のようではありません)

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相国寺(しょうこくじ)の近くは、まま
よく通るのだが境内に入ったのは初めてだ

相国寺の境内にある承天閣(じょうてんかく)美術館で開催されているリー・ダークスコレクション浮世絵最強列伝展に行ってきた。先月からの暑さ故、行くまでが大変だった。


烏丸通りから少し入るだけで
喧騒がなかったかのように静か



承天閣美術館への入口。
けっこう奥まった所にある






奥が入口。こぢんまりとしているが
落ち着いた雰囲気のいい美術館だった

ここ数年、なんだかんだで浮世絵の展示会に足を運ぶ機会に恵まれている。その度に私は江戸の歴史や文化についてほとんど知らないことを自覚させられるのだが、それはそれで新しいことを知りたいと思うきっかけにもなっているので楽しい機会であることには変わりない。出かければ、北斎のシリーズのみならず、予想外にもゴッホが模写したという、外連味(ケレンミ)が強くなりだしている時期の歌川広重の梅の木から人々を覗くような絵も見れたりする。
今回の展示会で興味深かったのは渓斎英泉の「江戸金龍山浅草寺観世音境内図」で、風景を縁取る形でアルファベットやローマ字を散らした文様を用いている作品だった。そういった文様は蘭字枠というそうだが、天保期ともなると浮世絵にも外国語の文字が現れるとは驚きだった。ちなみに作品の風景の表現は西洋の風景画の手法を意識したものになっていて、浅草寺境内が描かれているにもかかわらず、外国っぽかったところも面白い。
江戸の町で浮世絵に描かれるというのは一躍有名人になる、そうでなくとも少なくとも評判が立つことだったろうが、「有名浮世絵師の誰々があの店のあの娘を描いた」となれば娘だけでなく店も繁盛しただろう。しかしそれも行き過ぎてしまったこともあったのだろうか、「寛政5年(1793)、同8年(1796)美人画の中に町芸者や水茶屋の娘の名前を表すことが禁止された」と解説のある作品もあった。ただその作品には町芸者や水茶屋の娘の名前はダメでも遊女名は差し支えないとされたので辻君の絵にあえて「戯画」と書き加えられていた。まさに下に対策有りなたわむれを感じた。

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それがはじめられたそもそもの動機は善意によるものであった」なのかぁ・・・。

MeToo受け、女性の裸が描かれた油絵を一時撤去。イギリスの美術館に批判が殺到「検閲だ」(HUFFPOST)

先日には、F1レースのグリッドガール廃止で職を失った女性たちまで出た。
まるで禁酒活動や禁煙活動の様子を呈してきたのでは・・・。本当、最終的な形としてどうなりゃいいのよ・・・。

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ルミナリエの開催時期にボストン美術館の至宝展に足を運んだ。


英一蝶(はなぶさいっちょう)≪涅槃図≫(1713)のコピーとの撮影コーナーも






≪涅槃図≫に出てくる動物たちを選ぶことも




これまでに、いくつかの東西の逸品が集められた特別展を鑑賞したが、以前は東洋の展示物についてはいつでも見れるだろうから軽く鑑賞しておこうという、優先順位としては二番目な気持ちで作品を見ていた。しかし、ここ数年、台湾や中国を旅行するようになったり東アジア・東南アジアに関する本を読むようになってからは、アジアの博物品もより丁寧に見るようになっているな、と自分でも思う。
今回の展覧会ではまさかと思うような作品も来ていた。徽宗(きそう)≪五色鸚鵡図鑑≫(1100年ごろ)が来ていて、中国絵画が花開いた北宋時代の皇帝の筆による絵と書にまじまじと見入ってしまった。徽宗については国を文化面で充実させたものの国を軍事的に強くすることはできなかった皇帝、政治家でなく芸術家として生涯を全うしたかったろうことを考えると悲劇の皇帝のように映ってしまうのだが、≪五色鸚鵡図鑑≫を見てもなんだかそのことを感じ取れるようであった。≪五色鸚鵡図鑑≫には鸚鵡の姿のみならず書も付してあり、徽宗独特の書体である痩金体(そうきんたい)も見ることができ、独特のそれも早いタッチで書かれる文字は当時決して真似できなかったろうことも思わせた。
陳容≪九龍図巻≫(1244)の竜の愛嬌のある目には身内や親類が飼っている猫の目を思わせるようなものがあってほほえましかった。若い竜が試練に遭っているのにいちいちカメラ目線をくれる感じというか(笑)。
西洋絵画ではゴッホの作品も来ていたが、ブーダンの作品、そしてジョン・シンガー・サージェントの≪フィスク・ウォレン夫人と娘レイチェル≫(1903)も印象に残った。とくにサージェントの作品は、作品がボストン美術館に所蔵されているというだけでなく、絵がボストンのイザベラ・ガードナー夫人邸で描かれたものであったことも注目し、イザベラ・ガードナー夫人邸は現在美術館として公開されているが、非常に印象深い建物で展示品も目を見張るものが多かったことも思い出した。
神戸市立博物館はリニューアルのために来年2月から二年間ほど休館する。その前に東西の至宝を味わうことができてよかったように思う。

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ブリューゲルの「バベルの塔」を原寸大の大きさに
するとしたならば東京タワーよりも高いことになる。

ブリューゲル「バベルの塔」展に行ってきた。
























非常に充実した展示内容だったが、非常に来場者も多い展だった。世間では子供たちが夏休みというのもあって更に来場者数が増えたのではないかと思った。
来場者数が多い故、ブリューゲルの「バベルの塔」だけは行列をつくるようになっていた。よって立ち止まって鑑賞することはできないものの、行列に並び直せばまたじっくりと見ることはできた(時間は浪費してしまうが)。
本当に緻密な絵だった。画家にとっては作品制作の依頼があって描いた作品かもしれないが、真剣に描いたものであることは間違いないと思った。
それにしても塔の建物だけでなく、建設の過程を描くというのは、並々ならぬものがある。レンガを焼く過程、16世紀の建築技術を細かく観察したうえでのレンガを塔の上層部に運ぶ過程、漆喰を上に運ぶ過程のみならず、すでに造り終えた地上階や1階に相当する下層部のレンガの色と上層部の建設中のレンガの色を異ならせていたり、窓枠のデザインを階層ごとに変えていたり(各々の時代の窓枠のデザインに)することで時間の経過まで表現されているとは...。
こういったことは外国でこの絵をじっくりと見れたとしても、美術館の中の多くの見るべき作品の一つとして埋もれてしまいかねない旅行中のある種の意識の散漫さのせいで、たとえガイドから説明があったとしても気づかないままであることが少なくないものだ。その点、今回の特別展は特定の作品の見逃したくない要素に気づかさせてくれるいい展だったように思う。
展には「バベルの塔」だけでなくブリューゲルの時代の版画や、ブリューゲルやその世代に影響を与えたヒエロニムス・ボスの作品も展示されていた。正直、どこか不安にさせる不気味さが残るものの、漫画も含めた現代のアートに非常に大きな影響を与えているんじゃないかと思えた。

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神戸市立博物館にて



天正遣欧少年使節の四人と記念撮影
できるコーナーも設けられていた。

外国旅行中に有名美術館や博物館に入館できるのはすばらしいことなのだが、実際に入ってみると、そこで見るものが多すぎ、有名作品に気をとられ過ぎてお腹一杯になってしまうことは少なくない。
そして日本で開催される期間限定の特別展で、過去に旅行の最中に目にしていた筈の作品を目にし、こんな作品があったんだ、と見過ごしたことにさえ気付かないまま帰国したことに改めて気付かされたりすることもままある。また現地に行って丁寧に鑑賞してなお、見ることが叶わないものが見れる、ようするに旅行している間にお目にかかれず現地で脚光を浴びないものが日本で輝きを放つ展示物を特別展で鑑賞することが叶う場合がある。今回の遥かなるルネサンス・天正遣欧少年使節がたどったイタリアもこれらのことをしみじみ感じさせてくれるいい特別展だった。
ルネサンスやルネサンス以降の宮廷人の振る舞い方を変えたともいえるバルダッサーレ・カスティリオーネの肖像と氏の著書『宮廷人』を見ることができたのは望外の喜びだった。芸術家の庇護者や大衆に影響を与えた思想家の肖像におぼろげながら関心を覚え始めたのは、辻邦生の『春の戴冠』に出てくるフィチーノの人間像に接してからだが、『宮廷人』の著者の姿を見て『春の戴冠』を読んだのは無駄じゃなかったと思えた。
『宮廷人』の著者のみならず、『コジモ1世の肖像』『フランチェスコ1世・デ・メディチの肖像』『ビア・デ・メディチの肖像』『グレゴリウス13世の肖像』などルネサンスを支えた人達の肖像画には目を見張った。もちろん、展の主役である天正遣欧少年使節の一人伊藤マンショの肖像がドメニコ・ティントレット(ドメニコ・ロブスティ)の筆で描かれていることを知ったのも驚きだった。織田信長の時代にヨーロッパと日本の関係が進展したと教科書で習うものの、当時のヴェネツィアで活躍した画家と関連付けて考えることの出来る機会は滅多にない。それもただ展示を見て独りよがりな考えに耽るだけでなく、少年使節団とその時代について夕刻から展の見どころのレクチャーが開催される日に鑑賞できたこともあり、とても充実した時を過ごせた。

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クラーナハ作品は、画家が絵画工房を立てたこともあり親子でたくさんの作品が残していることもあってか、欧米の大きな有名美術館ではよく見ることができる。
しかし日本でまとまった形で見るとなればそう機会はないのでに足を運んできた。
クラーナハの絵を見ていると同じドイツの画家のホルバインやデューラーの作品の色使いに見えてしまうところがあるけれども、やっぱりクラーナハはクラーナハの作品だなという特徴はあるなと思った。
堂々たるファムファタールぶりでこちらを見据えたサロメとユディトには、くらくらっときそうになった。
「ヘラクレスとオンファレ」は昔愛読したギリシャ神話の解説本に載っていたこともあり、まさか本物を見れるとはと感無量だった。あの腑抜けたヘラクレスの表情に思わず苦笑した。
ほかにもおもしろかったものとしては、クラーナハのともすれば目のやり場に困るアンビバレント(二律背反)な作品や画家としての運命の帰路を思わせる展示の仕方だった。なかでもクラーナハ(父)が宗教改革で有名なマルティン・ルターの肖像を描けたのに対し、ルターの肖像を描くことを熱望していたデューラーはルターの肖像を描くことが叶わず、ルターと対立関係にあった枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデブルク(小)を残すことになったというのは実に興味深い。
展ではクラーナハの影響を受けた現代絵画もいくつか展示されていてそれがなかなかの存在感を放っていたのもよかった。
非常にマニアックな雰囲気の漂う展示でとても充実した時間が過ごせた。

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美術全集で大きく採り上げられている作品が、「一生で一度は見ておくべき作品≒名作・名品」のようにところがあるし、事実それらの刷り込みや手引きがなければ、私などは鑑賞に困る。
しかし、それだけでは面白くないなぁという思いはどこかにあってしまうのだが、今回の松方コレクション展では有名な画集に載っていなくても他では普通に注目されているよ、といった作品が集まっていたように感じた。それは作品リストにけっこう多くの美術館や博物館や企業の名があることかも分かる。
印象に残った作品は多かったが、とりわけG・モローの「ジョット」には三回見入った。モローはギリシア神話や聖書に題材をとった幻想的で神秘的な作品が多いが、まさかのルネサンス絵画の父ともいえるようなジョットの肖像を描いているとは思わなかった。モローの「ジョット」はメランコリックな表情の中に霊感を受けている風ではあるが、色使いが現代のマンガのデザインっぽくておもしろい。
ほか、トロワイヨン、ドービニー、ブラングインらの作品が印象に残ったりした。レールミットの「羊飼いの女性と羊のいる風景」に今なら女性がスマホ触りながら放牧しているような風に見えてしまったり、ダッドリー・ハーディーの「海の収穫」に描かれる網にかかった"機雷"に皮肉と大いなるリアリズムを感じ、ルパージュ「ロンドンの靴磨きの少年」にはこの絵を購入したときの鑑識眼はすばらしいものじゃないかと素直に思えた。

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