デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



私のこれまでの読書経験のなかで、読了までに一週間もかからなくて充実感を得られた長編小説といえばE・ブロンテの『嵐が丘』だけだったが、そういった思わぬ速読できてしまう類の小説に出会った。サラ・デュナントの『地上のヴィーナス』(2003,小西敦子訳)である。
この作品は15世紀末のフィレンツェにて、ボッティチェッリが活躍し、メディチ家のやり方に真っ向から対立した見方によっては粛清ともとれる神政政治を行ったサヴォナローラの台頭と失脚という、これまた密度の濃い時代を舞台に、商人の娘アレッサンドラがルネサンス期の市井の慣習と政治と時代の禁忌事項との間で葛藤し、家族との愛憎に翻弄されつつ、芸術に余すところ無く身をささげる物語である。
作者のサラ・デュナントは時代考証に際してとてつもない労力を割いたことだろう。登場する歴史上の画家や絵画・壁画、寺院の名前、地名にいたるまで、事細かに調べつくし、15世紀にフィレンツェに住んでいた著者かいな?と思わされるくらいの情報バンクな一面が、この小説にはある。作品を読んで、決して日本での特別展ではお目にかかれない芸術作品の傑作たちをフィレンツェまで見に行きたくさせる描写力は、一級だと思う。
また、作者は美術のマニアックな内容に入り込み過ぎないように、気をつけたことをうかがわせる。作品に登場する絵画・壁画は、意外と市販の美術大全集や美術書で目にすることができるので、思う以上に遠いようで近い感覚を覚えてしまうところが上手いし、それがまた削るべきところを削った作家の力量の顕れではないかという気がしている。
ただ小説の体裁としては、作者の博覧強記ぶりが少し裏目に出たかもしれない。作中の語り手アレッサンドラが回想記を執筆している設定になっているとはいえ、どうしても現代の視点から歴史考証をしてしまっている感がぬぐえない。手記という暴露体裁である以上、語り手にフィレンツェ史の蘊蓄まで傾けさせたことで、部分的に説明的過ぎる箇所が現れてしまい、読者の目からすると不自然に映ってしまう。その点が若干気になった。

本のカバーの内側に作品の評として、こうある。

  魅惑的で危険な、禍々しくも美しい蛇のような小説!
       ――サイモン・シャーマ

言い得て妙だ。この作品は蛇の存在なくして成立し得ない。作中の蛇の印象としては、やっぱりサンタ・マリア・デル・カルミネ修道院のブランカッチ礼拝堂にマゾリーノが描いたエヴァに善悪を知る木の実を食べるよう唆(そそのか)した蛇の絵がもっとも象徴的なもののように思う。
この作品はいたるところ蛇だらけだ。主人公であるアレッサンドラの周囲の家族や奴隷の唆しや示唆、壁に耳あり障子に目ありな間諜ぶりはまるで蛇みたいである。アレッサンドラは一家の子供の中で学問に才を発揮し、そのせいでひた隠しにした劣等感を抱いた兄弟・姉妹から疎まれまでもするのに、その教養は狡猾な蛇への対抗手段としては、ほとんど効果を挙げないほどだ。(逆に言うと才知と教養がありすぎると、俗世には通暁できないことの顕れを作者は仄めかしているかもしれない)
またアレッサンドラの周囲の人物たち(家族・奴隷・配偶者)との間で繰り広げられる会話は、常に駆け引きを意識した陰険でいじわるなものが多い。主人公は会話中に相手の細かい表情や動作、語気の強弱まで観察し、相手も主人公に対し同じことして主人公をやりこめたり、本意?ではないにしろ知らぬが仏だとスカしたことを人生の節目で平然と行う。まるで全員が各々個性はあるものの蛇みたいで、決して気を許すことができない間柄であることがわかるのだが、その緊張感がこの作品の大いなる魅力であって、どうしても先が気になってしまう。読書スピードも上がったのは、この残酷ではあれど、スピード感溢れるスリリングな会話のおかげだと思う。
最後に、最も蛇みたいだと感じさせるところに、芸術(創作)に対する姿勢がある。「画家」が作品にとりかかる場面(とくに「画家」がアレッサンドラをモデルにデッサンを行う場面)では、神聖や倫理的な行いという御託は最重要ではなく、むしろ善・悪どちらにも転びかねない「美」への冷静な余念の無さが、とてもエロティック描いてある。禁忌的な「画家」の探究心と、神聖なものの創作というより芸術への無意識な献身とがなせる業から出た描写と考えているが、その雰囲気を、獲物を捕らえようとする冷静な蛇の様子を思い浮かべずして、他にどう表現すればいいのだろうと、私は思ったのだ。作品が形を帯びていく際の画家の無意識のなかには、言葉で表現しうる人間的な感情なんて、毛頭ありはしないのかもしれないと、作品を読んでいて思った。

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