デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



加地伸行 著『沈黙の宗教―儒教』(ちくまライブラリー99)読了。
 
日本人が人生のあらゆる場面で、とくに社会でのマナーの教養が必要な場面や儀式の場で、なぜだか心底から起こってくる揺るがしがたい当たり前の心情とか、問題の解決の判断の根拠にしている、動機や理屈の前にある当たり前の心の動きがどういったものに由来しているのか、深く知りたい方におすすめの本である。
この本と『儒教とは何か』を読んでみて、なんだかんだいって自分もあの世でなく「この世に死んだ人の霊魂がある」と、それも心の奥底で思っている東北アジア人で日本人なのだと気づかされた。それは以前感傷のまま書いた、こちらこちらこちらの記事をご覧いただければすぐに分かると思う。
ただ、加地氏の著書が決定打というわけではないけれども、祖母や他の親類の葬儀に出ていろいろ考えてきて、やっぱり日本の仏教は"儒仏教"なのであることをひしひしと実感する。そのせいか、私が死んだら寺や葬儀業者が関わる葬儀はお断りと改めて思った。
↑の3番目のリンクの記事に

>逝った私を偲ぶ人がいたとしたら、お盆の時期にこの護摩木になんか書いて、遺灰の一部でも混ぜてくれれば(気持ち悪かったら混ぜなくていいが(笑))、私はもうそれでいい。

と書いたが、今となっては私を思い出せる人が任意に思い出せばよいと思うし、私の遺灰は一片たりとも残さないでほしいし当然墓もいらない。
私個人は以上の結論に至ったわけであるが、それはともかくとして、加地氏の著書の東北アジア人の死の問題の説明の仕方の詳細は読む価値があるし、儒教の歴史と実際的な道徳性からみた日本に入ってきた日本人による西洋思想の履き違えについては考えさせられることは確かだ。
著者の加地氏は勇気のある人だ。人の心の琴線に触れかつ非常にデリケートな問題の奥底にある"儒教の宗教性"を、長年の研究で知り尽くしてなお日本における儒教の解釈を自らつまびらかにし、世に問うことはなかなかできないと思うのだ。たいていの人は歴史の記述に留まり、難しい言葉で説明した気になって終わるのが関の山だろう。自らの解釈を思い切って書いた加地氏に対し読者は、(第5章の時事的な内容については本が書かれた時期が1990年代ゆえ若干古い印象を受けるだろうが)「君にも私の言うことが実感として分かる時が来る」と言われたい、たとえ癖があろうがこういった人に喝破してほしい喝を入れてほしいと思うかもしれない。

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