デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



「故事新編」の『鋳剣』『非攻』『出関』を読みおえた。これで文庫本の藤井省三訳・魯迅『酒楼にて/非攻』(光文社古典新訳文庫)所収の作品全てを読んだことになった。
三作品とも中国の古典の中にエピソードを脚色した小説だが、作品にはそれぞれ
『鋳剣――眉間尺少年と黒い男の復讐の物語』
『非攻――平和主義者の墨子と戦争マニアの物語』
『出関――砂漠に逃れた老子と関所役人の物語』
といった副題がついている。私は『非攻』『出関』の副題を見ただけで、「あ、もうこれは笑いが約束された作品だろう」と予感めいたものを覚えた。
『鋳剣』は意欲作であると思うし、『非攻』は内憂を抱える中国に墨子を待望する魯迅の気持ちを感じるが、個人的におもしろく思ったのは『出関』かな、と思う。
『出関』の冒頭で老子のもとを孔子がうやうやしく訪ねてくる場面からしてなんだか笑みを生じさせるものがある。物語のクライマックス?の『道徳教』を老子が書かされる場面での老子と関所役人とのやりとりのなかで、老子の話しが耳にタコができるほど聞かされた面倒くさいもので、ひどい話、関所に集まった人間の大半にとって意味など分からなくてもいいのだといった役人たちの慇懃無礼な様が露骨に顕われるのだが、その様子がいかにも話しをせがんだはずの当事者が何を持って「ありがたがる」のかを滑稽に描いていて、ニヤリとしたくなる気持ちを覚えつつ心をチクリとさせる。
ここには当時の中国の現状を嘆いたり批判しようとする魯迅の姿はなく、単にどこの国でも偉い人やその人の話を聞きたがる者たちって実際のところこんな感じでしょ?といわんばかりの魯迅のユーモアが表れていると思った。

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