デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



井上章一 著『京都ぎらい』(朝日新書)、読了。

谷崎潤一郎の『細雪』をめぐる論めいたエッセイですかと思った。
著書の中にある洛中の人が洛外の人を差別するようなことはどこででも起こっている。九州の人が関西に住み九州の訛りを指摘され(その逆もあり)たり、渡英したアメリカ人が現地でアメリカ訛りを指摘されることのようなものだ。
世の中の多くの人が、初対面の相手の言葉づかいやなまりを指摘し、コミュニケーションの取っ掛かりや関係を築く足がかりにする。だがその取っ掛かりの時点で侮蔑や卑屈の感情を読み取ったり必要以上に思いつめたりする繊細さを持ち合わせる人も少なくない。
また事が婚姻の是非に至れば、未だにこの手の問題はさらなる問題を上乗せする。実際、国内外問わずあるではないか、「どこの馬の骨をつれてきた」といった場面が(笑)。
誇り高いがどこか卑屈さを感じさせ嫉みも含んだ恨みつらみから出たエッセイもここまで出すぎれば立派なものだ。正直、読み進めるなか笑いながら思った、言葉の訛りを一番に指摘する人や他人を見て反射的に「どこの馬の骨」とのたまう人に、もっと言ってやってもいいのよ、と。
もちろん、独りよがりな被害妄想的な内容も無いではない。しかし、京都の花街や江戸時代初期に幕府が京都の神社仏閣にもたらしたアップデートの措置の内容は非常に興味深いし、拝観料の考え方や明治維新のとらえ方は世間の多くの人が見逃しがちな視点を忘れるなと釘を刺してくれる。とくに維新前後に京都や会津でおびただしい人の血が流れたことに触れている章は、時代の要請に応えるための勝てば官軍的な犠牲者を黙殺する地政学的な歴史観ではなく、権力争奪戦に翻弄され犠牲になった人がいたことに改めて気付かせてくれたと思う。


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