デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ヴァーツラフ・ハヴェル著(阿部賢一訳)『力なき者たちの力』(人文書院)、読了。

2月のETVで4回にわたり紹介された本で、番組内容にかなり興味を覚えたことで本を手に取った。
著書名はおろか著者のことも全く知らなかったが、ビロード革命を経たチェコスロバキア大統領、のちにチェコ共和国大統領に就任した人の著作となれば、読まずにはおられない気になった。
第一章から第七章の内容は第二次大戦直前や大戦中、そして戦後も同調圧力に苦しむ人々の多い日本のことか?と見まがうような内容じゃないのかと思える。とくに著書の中ではとりわけ有名だという「青果店の店主が店先に置くスローガン」の喩えは番組のみならず読んでみても衝撃を受けた。

…比喩的に言えば、青果店のスローガンがなければ公務員の婦人のスローガンもないだろうし、その逆もまたそうであろう。それぞれがお互いに反復するよう提案し、双方ともに相手の提案を受け入れている。両者がスローガンに対して無関心であるというのは錯覚でしかない。現実には、スローガンを通してゲームを受け入れ、そうすることで権力を認めるよう互いに強制し合っている。つまり、互いに従順であるよう手を差し伸べているのである。二人はともに支配される客体であるが同時に支配する主体でもある。体制の犠牲者であると同時にその装置となっている。
 誰も読まないスローガンが県の全域にわたって貼られたとしたら、それは、県の書記官から郡の書記官への個人的なメッセージである。だが同時にそれ以上のもの、人びとによる自発的-全体主義」という原則の一例となる。ポスト全体主義体制の本質をなすのは、あらゆる人間を権力構造に取り込むことである。もちろんそれは人間としてのアイデンティティを実現するためではなく、「体制のアイデンティティ」のために、人間としてのアイデンティティを放棄させ、つまり、「自発的な動き(オートマティズム)」全体の担い手となり、みずからが目的と化したものの召使となり、それに対する責任を担い、ファウストとメフィストフェレスの関係のようにそこに巻き込まれ、絡み合うことになる。だがそれだけではない。そのような関係性を通して、一般的な規範をともに形成し、他の市民に圧力をかけることになる。そればかりか、不可欠で自明なものとしてこの関係性を見なしながら、このような関係性の中で生活を営むことになり、万一、その関係性の外に出ようものなら、それを、異常なもの、傲慢なもの、自分への攻撃、「社会からの脱落」と見なすようになる。こういったものすべてを権力構造に巻き込むことで、ポスト全体主義体制は、相補的な全体主義、人びとによる「自発的-全体主義」の装置を形成する。
 じつのところ、ありとあらゆる人が、それに巻き込まれ、隷属している。青果店店主だけではなく、首相もそうである。権力序列の地位の違いは、関与の度合いの差でしかない。
p30-31

表面上の笑顔や身内や友人に対して猜疑心や相互不信を抱きギクシャクしている感じが充満している社会の様子をここまで上手く言い当て表現できている文を久しぶりに読んだ気がする。
ETVの番組内の解説はすごく分かりやすく、私だってきちんと読み込めたら人様との間でこの本の話題が出た際、著書の内容をスラスラと平易な形でアウトプットできるだろうと思っていたが、実のところそうは問屋が卸さないことを身に沁みて感じる。決して難しいことをいっているわけではないのに、番組で言っていた以上のこと、もしくは同等の解釈や読み解きがなかなか私の中で顕れてこないのである。ぜひ再読して自分の言葉で著書についてアウトプットしてみたいものだ。


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