デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



聖王座像(再掲)

今読んでいる上田正昭著『帰化人』(中公新書70)で、非常に興味深い記述を目にした。この本は韓国旅行の前には手がけていたとはいえ、前半の「帰化以前」の章で止まったままであった。
旅行を終えて年が移って、読書を再開すると、またしても「このことを知ってから扶余に行けばよかった」と後の祭りなことを思った(笑)。
具体的には、本の「古代国家の実力者」の章で仏教伝来の背景としての聖王の時代の百済と大和の政府の関係に目を見張ったので、今回、少しそのことについて触れたくなった。
『三国史記』によれば聖王(聖明王)が即位したのは523年である。聖王は百済の国力の充実に努力を傾注したが、百済はまた任那(みまな)への進出をやめなかった。任那への進出をやめなかったのは新羅も同様で、任那侵略をめぐる争いは激しくなっていった。
百済は北に高句麗の脅威も抱えていた。聖王は任那に城主・郡令を置くとともに、高句麗への備えを固めるために、それまで60年あまりも王城にしていた熊津(くまなり)をすてて現在の扶余へ遷都した。538年のことだった。
その538年こそが、百済から仏教がわが国に公に伝えられた年だった。聖王の時代は、百済仏教が隆盛をきわめた時期でもあった。対新羅と対高句麗策に苦心している聖王は、百済側による大和の政府とよしみを通じようとする外交政策の一環として仏教を伝えた。
その後、聖王は任那の復興の体をとって、任那の諸王の新羅への接近をいましめ、他方任那と新羅の国境に城を築き、大和の政府から三千の兵を送ることを提案し、大和の政府側の官人を召還の要求、といった動きを見せる。そういった面でも大和政権とのよしみを強めようする意図が見られるという。それほど聖王は対新羅と対高句麗策にあたって緊迫した状況にあった。
しかし「任那復興」への根回しが整う前に高句麗の軍隊が現在の扶余の北まで南下してきた。大和の政府からも軍隊が派遣されることになったので、大和の政府と百済とはますます関係が深まった。だが聖王はそののちの新羅との戦闘のなかに戦死した。百済滅亡の約110年前のことだった。

せっかく聖王の座像を目にし、弊ブログでも紹介したのに、一行程度で済ますのはなんともったいない事かと思ったあげくの画像再掲の記事となった。本を一読しただけで、衝動的に追記への気持ちが動いたのはなんともお恥ずかしい話しかもしれないが、上田氏の本をもとに聖王のあらましと古代日本への仏教伝来について紹介させてもらった。
それにしても、くどいようだが、現地にいる間に座像を見て、王と仏教伝来とが私の中で繋がっていなかったのは悔やまれる。でも座像や通りの標識を見かけたことで、学び直しのきっかけを得れただけでも現地に行った価値はあるのだとも思う。



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