岡山烽火場(おかやまのろしば)へ
少し歩いて登る必要がある
岡山烽火場の岡山というのは標高164mの丘陵で、ここに東軍の黒田長政と竹中重門の軍約5000が布陣した。東軍の最右翼になると同時に戦況を見渡せる所であった。
関ヶ原の合戦は午前8時ごろに開戦したが、攻撃の合図の烽火を上げたのがこの場所だ。
黒田如水の嫡男である黒田長政らの陣跡に来て、今回は朝鮮出兵(文禄・慶長の役、壬辰倭乱・丁酉再乱)で朝鮮半島に渡航し、現地で戦いを繰り広げた武将の事について考えてみた。
私が知る限り、朝鮮出兵に応え、かつ関ヶ原の陣跡に名のある武将は、宇喜多秀家、小西行長、黒田長政、島津義弘、福島正則、細川忠興、藤堂高虎、脇坂安治ではないかと思う。
先日の記事で賤ヶ岳の戦いで武功を上げた武将のその後について、語るに語りつくせないとチラッと触れたが、朝鮮出兵と関が原の合戦に関わったこの8名もすごい面子だと思う。半島に渡ったあげく撤兵し、結果的に何のために行ったのかという虚脱感に襲われたりしなかったのだろうか。
家康が最初に陣を敷いた桃配山の目と鼻の先の南宮山の毛利秀元が動かなかったのは吉川広家が調略されていたことも大きいが、その吉川広家を調略したのが黒田長政だった。また、解説板を読むまで知らなかったが、松尾山の小早川秀秋を調略したのも黒田長政だったとは・・・。
黒田長政の戦功についてはまた後の記事で触れたい。