明洞聖堂まで来た。
韓国のキリスト教について、中山義幸・平井敏晴 著『韓国歴史散歩』(河出書房新社)によれば
キリスト教は、18世紀頃から朝鮮半島に次第に入りはじめ、大韓帝国になって外国文化が一気に入ってくると、各地で教会が造られ始めた。カトリックは天主教(チョンジュギョ)であり、その寺院は聖堂(ソンダン)、プロテスタントは基督教(キドクキョ)であり、その寺院は教会(キョフェ)、と明確に区別している。
とのことだ。
打ち上げることが
できそうな形かも
水野俊平 著『韓国の歴史』(河出書房新社)を読むまで知らなかったのだが、朝鮮王朝のキリスト教受容は中国の明や清の時代の頃である。ただ、日本や中国みたいに宣教師がやってきて守護大名の庇護を受けて布教を始め許可を得て教会や学校を建て、いつしか布教が南蛮貿易の交換条件的なものでなされる、といったものではかったようだ。
聖堂内
朝鮮王朝は中国や日本に定期的に外交使節を派遣していた。日本へは教科書でも習う「通信使(トンシンサ)」、中国へは「赴京使(プギョンサ)」(「燕行使(ヨネンサ)」ともいう)といった具合だ。
赴京使には、清の先進文化に触れるために官吏や技術官吏が随行した。随行員の中にはヨーロッパから燕京(清の都、いまの北京)に来ていたイエズス会士と交流し視野を広める者もいて、彼らの活動によって西学(西欧の自然科学・西洋思想・天主教など)が朝鮮に紹介された。
17世紀には朝鮮の知識人の間で西学を研究する人が増え、天主教を探究する人も出始めた。その背景には両班層の学派の一部の朝鮮古来の伝統的価値観や朱子学に対する反発もあったが、天主教の受容という点だけでいえば知識人が天主教に傾倒し自ら天主信仰に目覚め、自主的に教会をつくったところに、日本や中国と違う特徴があるといえよう。