デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




これは今は無い前のカメラでの画像。画像と文書としてアップしたいところだが、書きたい内容が定まらないのでアップせずに放置している画像が増えてきた。せっかくなので画像だけでもアップしようと思った。

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弊サイトはネコ写真ばかりになりつつあるが、今回は読書の話題を。
とはいえ、感想に困る小説なんだなぁ…。ジーン・リース作『サルガッソーの広い海』(1966)という作品なのだが、普段から多角的なものの見方をしなければならないと思いつつも、小説に関しては古典文学さえ読んでいればある程度文学を語れるなどと思っていた私にとってみれば、ものすごいカウンターパンチをお見舞いされた感じなのである。

シャーロット・ブロンテに『ジェイン・エア』というメロドラマの名作がある。『ジェイン・エア』を読んだ、もしくは映画で見たという人はジェインが住み込み家庭教師としてロチェスター家に入って、そこで出会ったエドワード・ロチェスターと結ばれるストーリーをご存知だと思う。そのストーリーの中に、彼女と彼の間に立ちふさがるようなジェインの敵役で狂女として描かれている、西インド諸島出身のエドワードの正妻バーサ・メイスンという人物がいる。『サルガッソーの広い海』は、これまで語られることの無かった『ジェイン・エア』で醜女・狂女として怪物のように描かれているバーサの生涯に言葉を与えた物語である。
作品ではバーサの視点から、つまりは植民地人の白人の視点から、彼女の生い立ちやその環境、結婚や狂気に陥るまでの過程、そしてなぜイギリスにつれて来られたのか、その理由が語られるわけだが、ことの事情はそう簡単には理解できない。そこにはイギリス本国から植民地に移住し、数代に渡って農園などを運営した「イギリス人」が、実は(植民地では)圧倒的に少人数で、とくに1833年の奴隷制廃止法の成立・その翌年の施行後の「イギリス人」の中には現地人との緊張関係が続くなかで貧窮したものも少なくなかった、などの背景がある。
さらに、バーサは生粋のイギリスからすれば単なる植民地人であり、元奴隷や現地人からすれば忌み嫌われて排斥すべき貧乏な白人でもあるのだ。バーサにはイギリス人としての人格や、その土地の人間としての人格を根付かせることが極めて困難な環境が、常に眼前にあることになる。土地での彼女の立ち位置は常に彼女の精神を引き裂き、イギリス特有の古来からの剛健質実な教育観に裏打ちされた幸福感など入り込む余地は無い。エドワードは最初だけ彼女を官能的に愛したかもしれないが、彼女の心の闇を決して理解することはできなかった。そして彼女は狂気に陥っていく。
この作品を新たな文学全集として編集した池澤夏樹氏の言葉に「裏返された『ジェイン・エア』」という言葉があった。この作品は、どこにも居場所を見いだせず精神的に引き裂かれた人間の物語だけではなく、人間が無意識に持っている差別や偏見によって、無言のうちに苦しみを抱え込んであえぐ孤独な"二流のイギリス人"の姿を、世に名作として知られている『ジェイン・エア』の悪役の側から描いた、20世紀ならではの傑作であると私は思う。19世紀のジョルジュ・サンドやシャーロット・ブロンテの作品が、自らの意思を持った新しい女性像を積極的に描き、女性解放の文学として今も読み継がれるべきだと考える人も少なくないだろう。であれば、20世紀の『サルガッソーの広い海』は未だに根強い無意識の偏見や先入観が支配する社会に苦しむ人を描いた文学として、読み継がれる意義はあると思う。

最後に、『サルガッソーの広い海』の作者ジーン・リース(本名ミラ・グウェンドリン・リース・ウィリアムズ、女性)はイギリスの植民地であった西インド諸島のドミニカに生まれた(1890-1979)。両親は共にイギリス人の血を引いているが、かといって根っからのイギリス人になれるわけではなく、自身の作品は英語で書いたが、イギリスの作家とはいえず、かといって西インド諸島やカリブに根を下ろした作家かといえば、そうともいいきれない。その生い立ちが『サルガッソーの広い海』に大きく影を落としていることは否めないといえるだろう。彼女の生い立ちや生涯については『世界文学全集Ⅱ-01』(河出書房新社)や『サルガッソーの広い海』(みすず書房)に詳しいので、作品を読まれたらぜひ解説も読まれることをおすすめする。

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