デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 






なんか平城宮跡や正倉院の
資料展示を見ているような
気持ちになってきた。




五層石塔ができるまでの工程の説明


いろいろな人に感銘を与えてきたようだ。







大伽藍AR体験

タブレットで昔の定林寺を体験できる。子どもの頃に触ったら居座ったかも。


白鳳文化の大伽藍の図と
似ているように思った。

なんとか映えに
うってつけかも


歴代の百済の王さまと触れ
合うことができるようだ(笑)。

絵葉書を買おうと思った。大田や慶州でも探せば見つかるだろうし、一応2・3枚あればいいかなと思っていたが、セット売りしか扱っていなかった。
セット売りの中身がみたいという韓国語を知らなかったが、レジの女性が察してくれて中身を見せてくれた。観光地をきれいに写したものでなく、1900年ごろの扶余の写真の絵葉書を選んだ。8枚入りで3,500ウォンだった。

博物館はザッと見た程度だったが、時間的なものもあり定林寺址を後にすることにした。



来てよかった

定林寺址から近い国立扶余博物館所蔵の国宝・百済金銅大香炉も見たい気持ちはあるにはあったが、博物館に入ったらまた時間をかけてしまうし、おそらく、現地にいた時点で駆け足で見に行っても、「見るべきものは見た」というガイドブックに紹介されているものを見つけるスタンプラリー目的状態で無駄に疲れただけだったろう。
ただ、今ならぜひ見に行きたい博物品だと心底思っている。こちらこちらこちらで紹介されている画像だけでも、その技巧のすごさが伝わってくる。



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世界遺産のマークだ



入館すると受付の婦人が話しかけてきた。日本語の館内案内パンフレットはありませんか?と訊いたら、定林寺址に関するものだけでなく、観光案内マップ、扶余お散歩マップ、ユネスコ世界遺産百済歴史遺跡地区(公州・扶余・益山)など、どっさりとくれた(笑)。
そして順路を案内してくれた。

「太平八年戊辰定林寺大藏當草」の銘瓦片


寺が定林寺址と呼ばれるきっかけとなった高麗時代の銘瓦片(レプリカ)だ。
まずはこれだけは見てほしいという、婦人の気持ちが分かる気がした。「太平八年…」と読めたし、私の拙い発音で「高麗(コリョ)?」と訊いたら静かに頷かれていたのが印象的だった。


定林寺址の出土品の展示も
凝った演出がなされていた。

























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五層石塔

『北史』には百済は「寺塔甚多」とされているが、現在残っている百済の石塔は、定林寺址と益山(イクサン)市の弥勒寺址にある分だけだという。


五層石塔の存在を本で知ったとき、もし百済の歴史を訪ねに扶余に行くならば必ず行こうと決めていた。
本に載っている図版・写真でも十分惹かれるものがあったが、実物を見ると案外大きく、石を組み上げている石塔なのにとてもバランスがよくて、華美でなくて素朴で無駄がないにもかかわらず、品があるように思った。そして、どうやって建てたんだ?と興味をそそられた。
石を積み上げたり組んだりする技術はすでに紀元前から古代の4大文明のみならず、地球上のあらゆるところにあって、現代にも残る遺跡があるのは分かってはいれど、やっぱり驚かざるを得ないのだ。

















石仏座像

頭部は後代のものだが、
胴体は高麗時代に作られた。


石仏座像の向こうに教会があった。
韓国はキリスト教徒も多いんだと思った。






ところで、(定林寺址にかつてあった百済時代の寺の名が「定林寺」だったのか、そのことが記されている文献というかソースについては知らないので、あえて寺と書くが)寺は7世紀後半の百済滅亡と共に消失したが、高麗時代(918-1392)の1028年に再建された。
再建は大契丹国(後の遼)が「太平」と称した元号を用いていた頃だった。寺の再建には「太平八年(1028年)戊辰定林寺大藏當草」と銘文を刻んだ瓦も用いられた。
1942年、第1次発掘調査の際、「太平八年戊辰定林寺大藏當草」の銘瓦片が出土したことから、この寺址が定林寺址と呼ばれるようになった。



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扶余に来た大いなる
目的の一つの石塔だ!


蓮池








中門址

定林寺址五層石塔(チョンニムサジオチュンソクタプ)


本によっては「五重石塔」となっていることもあるが、現地のパンフレットで五層石塔となっているので五層のほうを用いる。

扶余が百済最後の都だったこと、扶余の前は泗泚という名だったことは既に触れた。
今の定林寺址にかつてあった寺の沿革の一行目は、6世紀半ば(百済の)泗泚遷都と同時に創建、だという。寺は百済泗泚都城の建設と共に建てられたので、王室の興亡盛衰と共にあったともいえる。
660年、百済は唐・新羅連合軍に滅ぼされた。唐の蘇定方将軍は百済滅亡を記念し五層石塔に戦勝記念文を彫らせた。石塔の最下層の塔身部に「大唐平百済国碑銘」と刻まれているのがそれだ。




身体を乗り出して、首を伸ばしたら、なんとか分かる。正直にいえば、私には文字らしきもの、としか分からなかった。デジカメで撮ってみて、拡大してみてようやく分かるのである。いいカメラが欲しいなぁと思ったし、銘文を目にはしたがきちんと読めずまた見ていなかったといえてしまうのが、ちょっと残念だ。でも、石塔はじっくり見たので良しとしよう(笑)。






「大唐平百済国碑銘」以外にも文字が刻まれている面があるのは分かったが判読できなかった。



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聖王座像(再掲)

今読んでいる上田正昭著『帰化人』(中公新書70)で、非常に興味深い記述を目にした。この本は韓国旅行の前には手がけていたとはいえ、前半の「帰化以前」の章で止まったままであった。
旅行を終えて年が移って、読書を再開すると、またしても「このことを知ってから扶余に行けばよかった」と後の祭りなことを思った(笑)。
具体的には、本の「古代国家の実力者」の章で仏教伝来の背景としての聖王の時代の百済と大和の政府の関係に目を見張ったので、今回、少しそのことについて触れたくなった。
『三国史記』によれば聖王(聖明王)が即位したのは523年である。聖王は百済の国力の充実に努力を傾注したが、百済はまた任那(みまな)への進出をやめなかった。任那への進出をやめなかったのは新羅も同様で、任那侵略をめぐる争いは激しくなっていった。
百済は北に高句麗の脅威も抱えていた。聖王は任那に城主・郡令を置くとともに、高句麗への備えを固めるために、それまで60年あまりも王城にしていた熊津(くまなり)をすてて現在の扶余へ遷都した。538年のことだった。
その538年こそが、百済から仏教がわが国に公に伝えられた年だった。聖王の時代は、百済仏教が隆盛をきわめた時期でもあった。対新羅と対高句麗策に苦心している聖王は、百済側による大和の政府とよしみを通じようとする外交政策の一環として仏教を伝えた。
その後、聖王は任那の復興の体をとって、任那の諸王の新羅への接近をいましめ、他方任那と新羅の国境に城を築き、大和の政府から三千の兵を送ることを提案し、大和の政府側の官人を召還の要求、といった動きを見せる。そういった面でも大和政権とのよしみを強めようする意図が見られるという。それほど聖王は対新羅と対高句麗策にあたって緊迫した状況にあった。
しかし「任那復興」への根回しが整う前に高句麗の軍隊が現在の扶余の北まで南下してきた。大和の政府からも軍隊が派遣されることになったので、大和の政府と百済とはますます関係が深まった。だが聖王はそののちの新羅との戦闘のなかに戦死した。百済滅亡の約110年前のことだった。

せっかく聖王の座像を目にし、弊ブログでも紹介したのに、一行程度で済ますのはなんともったいない事かと思ったあげくの画像再掲の記事となった。本を一読しただけで、衝動的に追記への気持ちが動いたのはなんともお恥ずかしい話しかもしれないが、上田氏の本をもとに聖王のあらましと古代日本への仏教伝来について紹介させてもらった。
それにしても、くどいようだが、現地にいる間に座像を見て、王と仏教伝来とが私の中で繋がっていなかったのは悔やまれる。でも座像や通りの標識を見かけたことで、学び直しのきっかけを得れただけでも現地に行った価値はあるのだとも思う。



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楼閣があったことの
根拠の一つかあ…。










なんかこの絵面
見たことあるなぁ























何度も楼閣を撮って
しまう遺跡見学だった。


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扶餘中学校


誠實

とモットーが掲げてあった。町なかではハングルでの文言を多く見かけるのは当然だが、時々は漢字を見かけたので韓国国内で漢字が廃れてしまっているわけではないのだと思った。


定林寺址の周囲、きちんと整備されている。




定林寺址の入場口

チケット売場にて。左の縦書きのハングル、
コァンラムアンネということは、ひょっとして
「観覧案内」か。あとの料金やシーズンごと
の拝観時間の違いなどはなんとなく分かる。


拝観料、大人1枚1,500ウォン



一息つく。朝の論山行の
バスチケットを写した。



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ただの貯水池と思っていたら、
まさかの弥生時代の農業用溜池
だったとは。きれいな四角だ。

公園内には発掘の様子を再現した展示もある。










模型による弥生時代の豊作を祈るおまつりの説明もあった。

















公園内の櫓や大型建物跡を見るだけでは分からないことが、この展示で建造物の使われ方のイメージがはっきりした。


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まだまだつづく唐古・鍵遺跡史跡公園。
















銅鐸まで作ってたのか








大型建物跡







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扶蘇山を振り返る


朝に通ったであろうラウンドアバウト


霧であってもかすかに座像があったのは
分かったが誰の像かは分からなかった。


聖王像

百済の首都を泗泚に遷都した王である。遷都後にあとで紹介する定林寺が建立された。


警察署の前だったのだろうか?
パトカーが縦列駐車っていた。


朝霧がはれた扶余市外バスターミナル

もう一度、朝の騎馬像へ。朝とはまた異なる見え方になっていた。


階白将軍騎馬像





ここのラウンドアバウトの東西に走っている通りにはGyebaek-ro(ケベク通り、階白通り)という名が付けられている。
今にして思えば、扶余の中心の大通りの名が階伯路、聖王路、泗泚路、石塔路となっている理由が良く分かる。
この後、宿で昨日の洗濯物を荷物に詰めてチェックアウト手続きをし、論山出発時刻まで荷物を預かってもらった。本当に助かった。
乾いていなかった洗濯物(靴下とミニタオル)をザックの網ポケットに入れて日に当たるようにし、宿から石塔路に抜け、石塔路を北へ歩を進めた。



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