以前、あるサイトの掲示板で論争になったことがあります。
それは、私が「中国はまだサービス業の発展していない地域が多く、宿泊施設などはサービス接遇の態度や客への衛生、安全管理などについて、日本などの先進国に学び、向上させていかなければならない」というようなことを書いたのが元でした。
その意見に意義を唱えた人によると、「サービス業のあり方について、日本や欧米先進国などのやり方が優れていると考えるのはおかしいのであって、その現地はその現地のやり方ですればよく、今現在の状況を変化させるべきと考えるのは、おごりである」というようなものでした。
今、放送大学で文化人類学をとっているのですが、今になって、そのとき掲示板で私の意見に猛反対した人が、どういう視点に立ってそういうことを言っていたのかわかるようになりました。
つまり、文化人類学を始めたのは、もともと先進国の人間であり、その初めの考え方としては、自国の文化を優れたものとし、他の民族の生活習慣や文化については、未開のもの、野蛮なものなどとみなし、それらはこれから進化して文明国へと発展しなければならないというような考え方をしていたようです。
しかし、その考え方はおかしいのであり、未開と思えるような民俗文化でも、それはそれで固有の価値と意味を持っているのだから、それらが同じ「文明」へ向って発展する必要などはないというものです。
それは確かにそうでしょう。何が正しくて何が間違っているとか、何が優れていて何が劣っているとか、文化に対して比べることはおかしい。多神教は未開で、一神教が優れているから、八百万の神を受け入れる日本文化はおかしいなどと言って、キリスト教になれとか、キリスト教でないならクリスマスをするなとか、そんなことは言えないはずです。
日本人の多くは、寺に行って神社に行って教会に行く、それでいいんだ。
その人は自文化至上主義を批判する立場として、私の発言に問題提起してきたのでしょう。
しかしながら、私が思うには、もともと「中国のサービス業は発展しなければならない」と言って嘆いていたのは、ある中国人の人だったし、日本にホテル業などを学びに来る中国人留学生がたくさんいるという事実の中で、観光やビジネスを発展させようとしている中国の現地の宿泊施設が現状のままでよいなどと言えるのかということでした。だったら、中国人が日本やアメリカ、ヨーロッパなどに留学する意味がないということになります。自国のいい面は残しつつも、それらの国に学ぶものは多いはずです。
逆に、今のままがいいというひとは、設備が整っていない不便さや危険性、素朴さを楽しむようなゲテモノ趣味を満喫するためにそんなことを言っているようにさえ感じます。
たとえば、ドアのないトイレ、鍵のかからない部屋、洗わないで使う皿、約束をしても時間どおりに迎えに来ない案内人、偽物を本物だと言って高く売りつける店員、などを楽しむ外国人も中にはいるかもしれません。
たしかに、昔ながらのその土地独特の手が加えられていないものにはそれなりの魅力があるとも言えますが、それはそれです。
世界の多くの人に来てもらい、経済効果を上げようと思って、実際にその方向に動いている状況ならば、やはり先進国の感覚や水準に合わせること、ドアにちゃんと鍵がかかり安全にすごせるとか、衛生的な食べ物を提供し宿泊客を下痢にさせないとか、通信・交通手段、人的サービスシステムも整え、快適に便利に滞在できるように進展させるという方向性は無視できないことだと思います。下水の設備や排気ガスの浄化なども必要でしょう。だからこの場合、文明を抜きに考えることは事実上できないと思います。
ただ、その論争があったときに、そういう文化人類学の歴史や問題点を知っていたら、それを踏まえてもっとうまい説得ができただろうな、と思いました。
その相手も、私がそういうことを知らずに偉そうなことを書いたことに対してムカついたんだろうと思います。
やはり知識は必要だ~!!!
それは、私が「中国はまだサービス業の発展していない地域が多く、宿泊施設などはサービス接遇の態度や客への衛生、安全管理などについて、日本などの先進国に学び、向上させていかなければならない」というようなことを書いたのが元でした。
その意見に意義を唱えた人によると、「サービス業のあり方について、日本や欧米先進国などのやり方が優れていると考えるのはおかしいのであって、その現地はその現地のやり方ですればよく、今現在の状況を変化させるべきと考えるのは、おごりである」というようなものでした。
今、放送大学で文化人類学をとっているのですが、今になって、そのとき掲示板で私の意見に猛反対した人が、どういう視点に立ってそういうことを言っていたのかわかるようになりました。
つまり、文化人類学を始めたのは、もともと先進国の人間であり、その初めの考え方としては、自国の文化を優れたものとし、他の民族の生活習慣や文化については、未開のもの、野蛮なものなどとみなし、それらはこれから進化して文明国へと発展しなければならないというような考え方をしていたようです。
しかし、その考え方はおかしいのであり、未開と思えるような民俗文化でも、それはそれで固有の価値と意味を持っているのだから、それらが同じ「文明」へ向って発展する必要などはないというものです。
それは確かにそうでしょう。何が正しくて何が間違っているとか、何が優れていて何が劣っているとか、文化に対して比べることはおかしい。多神教は未開で、一神教が優れているから、八百万の神を受け入れる日本文化はおかしいなどと言って、キリスト教になれとか、キリスト教でないならクリスマスをするなとか、そんなことは言えないはずです。
日本人の多くは、寺に行って神社に行って教会に行く、それでいいんだ。
その人は自文化至上主義を批判する立場として、私の発言に問題提起してきたのでしょう。
しかしながら、私が思うには、もともと「中国のサービス業は発展しなければならない」と言って嘆いていたのは、ある中国人の人だったし、日本にホテル業などを学びに来る中国人留学生がたくさんいるという事実の中で、観光やビジネスを発展させようとしている中国の現地の宿泊施設が現状のままでよいなどと言えるのかということでした。だったら、中国人が日本やアメリカ、ヨーロッパなどに留学する意味がないということになります。自国のいい面は残しつつも、それらの国に学ぶものは多いはずです。
逆に、今のままがいいというひとは、設備が整っていない不便さや危険性、素朴さを楽しむようなゲテモノ趣味を満喫するためにそんなことを言っているようにさえ感じます。
たとえば、ドアのないトイレ、鍵のかからない部屋、洗わないで使う皿、約束をしても時間どおりに迎えに来ない案内人、偽物を本物だと言って高く売りつける店員、などを楽しむ外国人も中にはいるかもしれません。
たしかに、昔ながらのその土地独特の手が加えられていないものにはそれなりの魅力があるとも言えますが、それはそれです。
世界の多くの人に来てもらい、経済効果を上げようと思って、実際にその方向に動いている状況ならば、やはり先進国の感覚や水準に合わせること、ドアにちゃんと鍵がかかり安全にすごせるとか、衛生的な食べ物を提供し宿泊客を下痢にさせないとか、通信・交通手段、人的サービスシステムも整え、快適に便利に滞在できるように進展させるという方向性は無視できないことだと思います。下水の設備や排気ガスの浄化なども必要でしょう。だからこの場合、文明を抜きに考えることは事実上できないと思います。
ただ、その論争があったときに、そういう文化人類学の歴史や問題点を知っていたら、それを踏まえてもっとうまい説得ができただろうな、と思いました。
その相手も、私がそういうことを知らずに偉そうなことを書いたことに対してムカついたんだろうと思います。
やはり知識は必要だ~!!!