土曜日に「秋葉原」に行きました。秋葉原にはもう何年も行っていませんでした。
今回は、夫がオーディオの部品を買いに行くのに付き合わされました。
電車を降りると、駅の構内通路が以前よりずいぶんと広くなっているように思いました。そして、改札を出ると、そこはアトレで、おしゃれな感じのものが色々売っていました。
秋葉原もずいぶんと変わったなと思いました。
「秋葉原」といって思い出すのは、多くの犠牲者を出した「通り魔殺傷事件」です。この日は、天気もよく平和な感じの駅前でした。でも、いつなんどき、気の狂った人間が刃物を持って現れないとも限らないんだよね、と話しながら道を歩いていきました。(それは、秋葉原に限ったことではありません。)
アトレから外に出て、どうやら事件現場はここではなさそうだと、ちょっと安心しながら左方向の万世橋のほうに向かいました。ちょうどそっち方向にある店に用事があったのです。
ここは「万世橋」交差点です。いつか車で走ることがあるかもしれないので、街中を歩くと、やたらに交差点の写真などを撮っています。
万世は昔はよくステーキを食べたものです。この日はすでに昼ご飯を済ませてきていました。記念に牛の看板を撮影しました。
その後、路地に入ってパソコンの店なども少しみて歩きました。電気街には若い女の子がいっぱい立っていました。手にはパンフレットなど持っています。メイド服の女の子、女学生の制服みたいな女の子、浴衣姿の女の子、普通のワンピースの女の子など、いろんな女の子が並ぶように立っています。正直言ってあんまりかわいい子はいませんでした。いったいどこから来て、こんなバイトをしているのでしょうか?電気街に来る男性は、買いものをしたあとで、メイド喫茶とかに行って休憩するのかな?本当に不思議な文化です。
用事をさっさと済ませ、そんなに長くはいませんでした。電気街口から駅に入って電車に乗りました。
山の手線に乗って、電車の中のテレビを何気なく見ていました。
“秋葉原殺傷事件から5年”という字幕。
えっ????
今日だったの?
そこで初めて気がついたのです。
まさしく6月8日が、その日だったということを。
全くの偶然でした。
実は、土曜日に秋葉原の写真と事件のことをブログに書こうと思いましたが、
なんだか、そんなことを、ブログのネタにしていいのだろうかと思い、躊躇しました。
あんなに犠牲者が出た事件を、話のネタにするのは不謹慎ではないかと感じました。
自分に関係ないから、人ごとのように書ける。所詮野次馬ということになるのではないか。
でも、やっぱり、そこに行ったのは事実であり、感じた事を書こうと思います。
事件現場は、万世橋交差点よりも北側の大きな交差点だったことがわかりました。
万世橋がある通りは「中央通り」であり、万世橋交差点よりも北側で「神田明神通り」が交差しています。この神田明神通りを西から東に犯人の車が走ってきて信号を無視してつっこんだそうです。
私たちは、駅に戻るときに、その大きな交差点が視界に入る程度でした。
万世橋のところにある警察署から、警察の方たちが事件現場に向かったそうです。
以前、オウム真理教の地下鉄サリン事件を扱った「アンダーグラウンド」を読んだ時に思ったことは、凶悪犯が自分とはまるで関係のない世界の人のように思うけれど、本当にそうなのかということでした。
世の中には、健全な人間と異常な人間がいて、それらには普通接点がないが、ある日突然、狂った人が健全な人々に牙を剥いて来るのだ、と思いがちです。
でも、この社会は、そもそも異常なものを内包していて、その醜い要素は、一般人に関係のないものではないのかもしれない。
きれいなところに醜いものが侵入してくるのではなく、罪のないところに罪がやってくるのでもない。健全な人、善良な市民は、被害者であって加害者ではあり得ないと簡単に片づけていいのか。そう思う時に、不気味な不安にとりつかれます。
私たちは穢れていない、健全ですと思って生きているなかで、その隠された醜さのしわ寄せを1人で背負っている人が、ある日突然爆発してしまうのかもしれない。
何故、事件は起きるのか。
私は、牛や豚を殺す場面を見ることなく、おいしい牛肉や豚肉を食べている。
善良な市民とはそのようなものなのかもしれない。
牛や豚が肉になる過程を見たら、暢気に肉を食べられるのでしょうか。
見たくないものは見ない。
それは、都合がいいことだ。
でも、それがやめられない。
放射能のある原発も人にまかせて電気を使ってきた。
今も汚染物質の収拾がつかないのに、人任せにしている。
どこかで虐げられている人がいても、
どこかで戦っている人がいても、
知らぬ顔で平和に暮らしているのだ。
善良な市民こそが、罪深いのかもしれない。
自分は犠牲にならなくてよかった、これからも自分に危険が及ばないように、
身内に危険が及ばないようにと、
そして、楽しく豊かにすごそうと、
それだけを思ってくらしているのだ。
今回は、夫がオーディオの部品を買いに行くのに付き合わされました。
電車を降りると、駅の構内通路が以前よりずいぶんと広くなっているように思いました。そして、改札を出ると、そこはアトレで、おしゃれな感じのものが色々売っていました。
秋葉原もずいぶんと変わったなと思いました。
「秋葉原」といって思い出すのは、多くの犠牲者を出した「通り魔殺傷事件」です。この日は、天気もよく平和な感じの駅前でした。でも、いつなんどき、気の狂った人間が刃物を持って現れないとも限らないんだよね、と話しながら道を歩いていきました。(それは、秋葉原に限ったことではありません。)
アトレから外に出て、どうやら事件現場はここではなさそうだと、ちょっと安心しながら左方向の万世橋のほうに向かいました。ちょうどそっち方向にある店に用事があったのです。
ここは「万世橋」交差点です。いつか車で走ることがあるかもしれないので、街中を歩くと、やたらに交差点の写真などを撮っています。
万世は昔はよくステーキを食べたものです。この日はすでに昼ご飯を済ませてきていました。記念に牛の看板を撮影しました。
その後、路地に入ってパソコンの店なども少しみて歩きました。電気街には若い女の子がいっぱい立っていました。手にはパンフレットなど持っています。メイド服の女の子、女学生の制服みたいな女の子、浴衣姿の女の子、普通のワンピースの女の子など、いろんな女の子が並ぶように立っています。正直言ってあんまりかわいい子はいませんでした。いったいどこから来て、こんなバイトをしているのでしょうか?電気街に来る男性は、買いものをしたあとで、メイド喫茶とかに行って休憩するのかな?本当に不思議な文化です。
用事をさっさと済ませ、そんなに長くはいませんでした。電気街口から駅に入って電車に乗りました。
山の手線に乗って、電車の中のテレビを何気なく見ていました。
“秋葉原殺傷事件から5年”という字幕。
えっ????
今日だったの?
そこで初めて気がついたのです。
まさしく6月8日が、その日だったということを。
全くの偶然でした。
実は、土曜日に秋葉原の写真と事件のことをブログに書こうと思いましたが、
なんだか、そんなことを、ブログのネタにしていいのだろうかと思い、躊躇しました。
あんなに犠牲者が出た事件を、話のネタにするのは不謹慎ではないかと感じました。
自分に関係ないから、人ごとのように書ける。所詮野次馬ということになるのではないか。
でも、やっぱり、そこに行ったのは事実であり、感じた事を書こうと思います。
事件現場は、万世橋交差点よりも北側の大きな交差点だったことがわかりました。
万世橋がある通りは「中央通り」であり、万世橋交差点よりも北側で「神田明神通り」が交差しています。この神田明神通りを西から東に犯人の車が走ってきて信号を無視してつっこんだそうです。
私たちは、駅に戻るときに、その大きな交差点が視界に入る程度でした。
万世橋のところにある警察署から、警察の方たちが事件現場に向かったそうです。
以前、オウム真理教の地下鉄サリン事件を扱った「アンダーグラウンド」を読んだ時に思ったことは、凶悪犯が自分とはまるで関係のない世界の人のように思うけれど、本当にそうなのかということでした。
世の中には、健全な人間と異常な人間がいて、それらには普通接点がないが、ある日突然、狂った人が健全な人々に牙を剥いて来るのだ、と思いがちです。
でも、この社会は、そもそも異常なものを内包していて、その醜い要素は、一般人に関係のないものではないのかもしれない。
きれいなところに醜いものが侵入してくるのではなく、罪のないところに罪がやってくるのでもない。健全な人、善良な市民は、被害者であって加害者ではあり得ないと簡単に片づけていいのか。そう思う時に、不気味な不安にとりつかれます。
私たちは穢れていない、健全ですと思って生きているなかで、その隠された醜さのしわ寄せを1人で背負っている人が、ある日突然爆発してしまうのかもしれない。
何故、事件は起きるのか。
私は、牛や豚を殺す場面を見ることなく、おいしい牛肉や豚肉を食べている。
善良な市民とはそのようなものなのかもしれない。
牛や豚が肉になる過程を見たら、暢気に肉を食べられるのでしょうか。
見たくないものは見ない。
それは、都合がいいことだ。
でも、それがやめられない。
放射能のある原発も人にまかせて電気を使ってきた。
今も汚染物質の収拾がつかないのに、人任せにしている。
どこかで虐げられている人がいても、
どこかで戦っている人がいても、
知らぬ顔で平和に暮らしているのだ。
善良な市民こそが、罪深いのかもしれない。
自分は犠牲にならなくてよかった、これからも自分に危険が及ばないように、
身内に危険が及ばないようにと、
そして、楽しく豊かにすごそうと、
それだけを思ってくらしているのだ。