山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

夏目漱石の美術世界展2

2013-06-25 01:16:17 | 美術・美術館
さて、順番で行くと、「第3章 文学作品と美術」の展示内容について書くところですが、「第1章 漱石文学と西洋美術」のところに展示されていた、ターナーの絵について書くのを忘れていたので、それから書きたいと思います。



上のパンフレットの左下に載っているターナーの「金枝」(1834年)という作品です。

『坊ちゃん』では次のような場面がありました。

「 船頭はゆっくり漕いでいるが熟練は恐ろしいもので、見返ると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺の五重の塔が森の上へ抜けだして針のようにとんがっている。向こう側を見ると青島が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと言っている。野だは絶景でげすと言っている。絶景だかなんだか知らないが、いい心持ちに相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのも薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松をみたまえ、幹がまっすぐで、上が傘のように開いてターナーの絵にありそうだね」と赤シャツが野だに言う。野だは「全くターナーですね。どうもあの曲がり具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何のことだか知らないが、聞かないでも困らないことだから黙っていた。舟は島を右に見てぐるりと回った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平らだ。赤シャツのおかげではなはだ愉快だ。できることならあの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられんこともないですが、釣りをするには。あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかとよけいな発議をした。赤シャツはそいつはおもしろい。われわれはこれからそう言おうと賛成した。このわれわれのうちにおれも入っているなら迷惑だ。おれは青島でたくさんだ。 」

実際にターナーの絵を見て、なるほど、坊ちゃんの青島の松は、あんな形だったかと思いましたが、赤シャツが「幹がまっすぐで」と言っているのに、野だが「あの曲がり具合ったらありませんね」と言っているのがおかしいです。実際、野だはターナーの絵を知っていたのでしょうか?葉っぱのある上のほうの部分の枝ぶりはちょっと曲がっているようでしたが、そのあたりの事を言っているのか、あるいは幹が多少湾曲している事を言っているのでしょうか。そして、ターナーが画いた木は松ではなく何の木だったのかなと思いました。
どっちにしても、この場面も、坊ちゃん(おれ)の感想や人のやり取りがおかしくてたまりません。

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次に、第3章 文学作品と美術『草枕』『三四郎』『それから』『門』の展示より

パンフレットの写真、右上のほうにある女性の顔の絵です。

これはグルーズの「少女の頭部像」で、そのほかに「和田英作」という人が模写をしたというグルーズ原作の「少女」という絵が展示されていました。
少女の顔は、上の写真でもわかるように艶っぽく何とも言えない表情をしています。

『三四郎』では、次のような場面がありました。

「 二三日前、三四郎は美学の教師からグルーズの画を見せてもらった。その時美学の教師が、この人の画いた女の肖像は悉くヴォラブチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラブチュアス!池の女のこの時の目付きを形容するにはこれより外に言葉がない。何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうして正しく官能に訴えている。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴え方である。甘いものに耐え得る程度に超えて、烈しい刺激と変ずる訴え方である。甘いと云わんよりは苦情である。卑しく媚びるのとは無論違う。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な目付きである。しかもこの女にグルーズの画と似た所はひとつもない。目はグルーズのより半分も小さい。 」

文庫本の注釈によれば、「グルーズ」は「フランスの画家。市井の風俗に取材した絵を多く描いた。」と書いてあり、「ヴォラブチュアス」とは「肉感的な」と書いてありました。

正直いって、「三四郎」のこの部分の女についての記述は、どのように訴えていて、どんな目付きなのか、私にはよくわかりません。グルーズの画のようかと思いきや、それとは似たところが1つもないと書いてあるのです。目がグルーズのより半分も小さいとは笑ってしまいますが、日本人だからさもありなんです。見た目は似ていないけれど、ヴォラブチュアスな部分だけは同じだったのでしょうか。
いずれにしても、グルーズの描いた「ヴォラブチュアスな表情」の女性像の絵がどんなものかを見ることができたのはよかったです。

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そして、パンフレットには載っていませんが、青木繁の「わだつみのいろこの宮」が展示されていました。この絵は、青木繁展でも見たことがありました。

『それから』には、この絵について次のように記されています。

「 それから11時過ぎまで大助は読書していた。が不図ダヌンチオという人が、自分の家の部屋を青色と赤色に分かって装飾していると云う話を思い出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発想は、この二色に外ならんと云う点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とかいうものはなるべく赤を塗りたてる。又寝室とか、休憩室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付けをする。と云うのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。
大助は何故ダヌンチオの様な刺激を受け易い人に、奮興色と見做し得べき程強烈な赤の必要があるのだろうと不思議に感じた。大助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好い心持はしない。出来得るならば、自分の頭だけでも可いから、緑のなかに漂わして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云う人が海の底に立っている背の高い女を画いた。大助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った。つまり、自分もああいう沈んだ落ち付いた情調に居りたかったからである。 」


この「青木という人」が青木繁であり、この絵が「わだつみのいろこの宮」だということです。確かに背の高い女性が描かれていました。しかし、展示されている絵を見ると、私としては、それほど「沈んだ落ち着いた情調」とは感じられませんでした。むしろ落ち着きの中にも華やかさがあるように思いました。青木繁は神話などを題材とした絵を良く描き、この絵の女性は海の底に立っているらしいですが、それは絵を見た限りでは、私には以前からよくわかりません。
インターネットでこの絵の画像を検索するといろいろ出てきます。もっと暗い感じに見えるものもあります。左の女性は派手ではないものの赤っぽいドレスを着ています。右の女性は白です。(青っぽい画像もあり。)
「それから」の中では、大助が赤を落ち着かない危機的な色として感じており、青や緑のような落ち着いた色彩が好きだということはわかります。また、百合の花など、白がいかにも好きそうでしたので、右の女性の雰囲気が好みに合いそうだと思いました。

この展覧会で、漱石が「青木繁」の絵を好んでいたこともわかりました。青木繁の絵は、漱石と同時代の画家として、このほかにも自画像など数点展示されていました。

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本日は、引用部分がかなり長くなってしまいましたが、漱石の作品の部分を思い出しました。
とり上げるときりがないので3点についてだけ書いてみました。

他の展示についてはまた後日書きたいと思います。

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