この建物は「旧日立航空機株式会社変電所」で戦災建造物として東大和市の指定文化財となっています。(一般的には「旧日立航空機立川工場変電所」と言われているようなのでタイトルそちらに変えました。)
空襲跡がそのまま残っているこの建物が都内に存在していることを、ネットサーフィンをしているときに、偶然知りました。そして、建物内を見学できるのが、水曜と日曜だということを知り、先週の日曜日に急遽出かけていきました。
この一帯は、当時大規模な軍需工場があり、飛行機のモーターを作っていて、多くの人が働いていたそうです。そのため昭和20年に3度の空襲に見舞われ、この建物の周囲は壊滅状態となり、多くの犠牲者が出たそうです。
この建物の外壁についているボコボコのへこみは、空襲による銃弾のあとで、コンクリートが崩れている部分もあり、ひどい状況だと感じますが、当時としては、他の建物が跡形もなく破壊された中で、この建物だけが壊れずに残っていたということになります。
そして、その後もこの建物は使われ続けていたそうです。
戦争で被災した建物としては、広島の原爆ドームが有名ですが、その他にはあまり聞いたことがありません。この建物についてもまるで知りませんでしたが、西の原爆ドーム、東の変電所というくらい貴重なものらしいです。
なぜそのようなものの存在を、これまで知らなかったのだろうかと思ったのですが、東大和市が平成7年に市の文化財(史跡)に指定し、保存改修工事を行い、令和2~3年に老朽化に対応して屋上改修・外壁補強・耐震補強をしたため、壁の崩壊を防ぐことができて2階への立ち入りができるようになったとのことです。
ということは、つい最近になって完璧な見学ができるようになったということなのですね。
これもやはり、新型コロナの影響があり、大々的に情報が出回らなかったのだろうと思います。
このコロナ禍において、どれだけ多くのコロナ以外の情報が閉ざされてきたのでしょうか。
それでも、こうやって戦争を伝える文化財をしっかりと保存してくださる活動が進められていたことに感謝します。
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さて、では先週の見学行程に沿って振り返りたいと思います。
この変電所は、都立東大和南公園にあるとのことで、まずは南東方向から公園に入っていきました。
少し歩くとグラウンドがありました。その向こう側に見える白い四角い建物が変電所のようです。
この写真はそれがわかっていて撮影したのかどうか、記憶がありません。
グラウンドを超えて近づくと、ここで明らかにそれが戦災建造物の変電所であることがわかりました。
特に囲いなどもされていなくて、普通の風景の中に溶け込んでいます。
近くにはテントを設置して、その中で休日をのんびり過ごしている人もいて、普通の公園風景でした。
さらに近づきます。
このような建物を、何の予備知識もなく見た場合は、不可解な異様さを感じるかもしれませんが、ただ古くてボロい建物が何であるの?と思うかもしれません。
あるいは、写真だけ見たのであれば、現代の平和ボケした日本人には、この丸いへこみ跡がデザインされた模様に見え、割れたコンクリートも一種のデザイン的な設計によるものかと思う可能性さえあります。
自分が、実際にここに行って建物を見て、確かにすごい空襲を受けたんだなとは感じましたが、今現在そこで恐怖がこみ上げてくるというようなわけではなく、この地で多くの人が重傷を負ったり亡くなったりしたのだという気味の悪さはありませんでした。
それは、あまりにも年月が経っているからなのか、私に霊感がないからなのでしょうか。
そうして、入り口から中に入って行きました。
まず最初に、すぐ右側にある蓄電池室を見ました。
このように、蓄電池がたくさん置かれています。
この部屋の壁に外から貫通する穴が空いていて、外の光が中に差し込んでいました。
そのあと、視聴覚コーナーで、昔この工場で働いていた人たちの体験談のビデオを見ました。
時間は15分くらいで、80歳くらいのおじいさんやおばあさんが語っていました。
あるおじいさんの話では、その日交代制で働いていて、自分は休みだったとのこと、空襲があって外に出てみると、工場が爆撃され、そちらのほうから、けが人が血だらけで歩いてきた姿を見たそうです。
その後、遺体がたくさん並べられていたりしたそうです。御遺体は意外にも悲惨な状態ではなく、それは人によってきれいに整えられたためであり、蝋人形のように見えたとのことでした。
あるおばあさんの話では、自分が入るはずだった防空壕に入れず、別の防空壕に入ったら、自分の入るはずだったほうの防空壕が爆撃されて中の人が亡くなったので、もし本来の防空壕に入っていたら自分は今存在しなかったと言っていました。
体験談を語る人に女性が多いのは、当時軍需工場で働いていた若い女性が多かったということに驚きました。犠牲者も男性ばかりではなく女性の数も多いようです。
工場敷地内に防空壕を作っても何の意味もないとのことです。
当時としては、爆撃後に形の残っていた変電所は、幸いにして傷を負わなかった建物という認識だったそうです。
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それから、工場の歴史や空襲についての展示を見ました。
こんな爆弾が落とされたようです。
ここの工場では、このような飛行機のエンジンを作っていたとのことです。
これは、なんだったか?撮影可と書いてあったので写してきました。
ちなみに、建物の入り口に「撮影可」と書いてあったので、内部はすべて撮影可能です。
工場は戦後、社名変更などしつつも平成5年まで操業が続けられ、空襲の打撃が少なかったこの変電所と給水塔は、戦後も使われ続けていたそうです。
その後、工場が移転しこの一帯は公園となりました。
変電所は壊される予定だったものの、市民グループや元従業員の方々の運動により保存されることとなりました。
給水塔は場所が離れていたため取り壊されましたが、一部分が変電所のそばに保存されています。
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展示を見たあと、2階に上がって行きました。
階段を上がって行くと、まず仮眠室が展示されていました。
2階はこんな感じでした。
配電盤です。
上の写真の一番左の部分に銃弾が当たった痕がありました。
それでも動いていたので使われ続けたようです。
電力の流れの説明がありますが、難しいです。
当時ここから9個の工場に電気が分配されていたらしいです。
壁も破壊されています。
奥の部屋はこんなになっていました。
パンフレットの平面図には油入遮断器と書いてあります。
2階の階段のところの窓から見える公園の風景がとても綺麗です。
正面のデッキから外を見ると、周囲の公園と、南西側には大きなマンションが見えます。
この変電所は、長い年月、時代の流れを見てきたのでしょうね。
南側正面。デッキのコンクリートが破壊されています。
南東方向には外階段があります。
当時は、2階が事務所だったそうで、建物内の階段のほかに、外から直接に出入りできるようにもなっていたそうです。(現在は使用不可)
外から見ると、階段はこのようになっています。
↑建物東側。
↑正面入り口左側に給水塔の一部分が展示。
↑裏側です。 飛行機ではなく鳥が飛んでいました。
東側に慰霊碑がありました。
これができたのは戦後50年のときで、社名が「小松ゼノア(株)」になっていて、その構内に建てられたそうですが、その後この公園内に移設されたそうです。
東側、少し離れたところから。
多くの人に見てもらいたいものだと思いました。