山咲雛子の日記

毎日何かを好き☆と感じ、感謝して、頑張っています。時間が沢山あったら、ゆっくり自然の中で過ごしたいです♪旅もしたいな♪

仏教を知る

2009年03月13日 | つぶやき
叔母の死から1ヵ月が経ちました。

自宅から徒歩すぐのお寺にお墓を作ることが決まりましたが、叔父にしてみれば「宗派のことをもっと知っておくべきだった」との戸惑いが残っているようでした。
私の数少ない経験のなかでも、葬儀での拝み方や供養の作法には不思議を感じる場面もあったのは確かです。
菩提寺があるなら兎も角、家族が元気なうちにお墓に関することを話し合っておくのも、大事に思えます。

図書館から「すぐわかる 日本の仏教」「すぐわかる 日本の仏教」と2冊の本を借りてみました。
が、すぐには解りませんでした。
解ったのは、仏教も宗教に関しても自分は無知であること。
おそらく多くの方は仏教に無関心の昨今ですが、その背景には、なんとキリスト禁教が係わっていたとは驚きです。

時代は1612年の頃、幕府によるキリスト教の禁教布告が出され、「宗旨人別帳」の作成が行われるようになります。
家ごとに、戸主を筆頭に家族や使用人の名や年齢を記したもので、寺がキリシタンではないことを証明する形だったことから、寺請制度=寺檀制度(檀家制度)が始まっていきます。
この制度の確立により家康によって「宗門檀那請合之掟」が定められ、お布施をするなど檀家のつとめを果たすことが義務付けられ、人々は菩提寺に生殺与奪の権を握られたに等しい、苦しい状態に陥ります。
つまり、生まれた時から一生菩提寺に属すこととなり、自分の意思では原則として宗旨を変更することができなかったために、その宗の教えが何であるかを知っても仕方なく、宗の違いに対する関心は小さくなっていきます。
そういった時代背景が現代の宗教観に受け繋がれているようです。

日本は神社もあり、お寺もあり、何を敬っていいのか疑問に思いますよね。
その背景は、なんとアジアでの国交問題が絡んでいたとは・・・

時は538年(または552年)欽明天皇の時代。
百済(聖明王)の使者が来朝し、欽明天皇に仏像や経典を献じます。
「王から王へ仏教が伝えられた」ことで仏教公伝といわれ、仏教を受け入れて寺院建立することが東アジア世界の一員であることの証明となるのでした。
ところが欽明天皇は大いに迷惑のようで・・・
その時代、有力氏族の連合体だった大和政権では、それぞれが氏神様を祀っており、天皇はそれを無視して仏を受け入れることはできず中立の姿勢をとり、仏像を崇仏派だった曽我氏に渡すのでした。
そのことは廃仏派の物部氏と有力氏族を二分する対立を深めることとなります。
その後、推古天皇の時代には「三宝(仏・法・僧伽)興隆の詔」により、596年日本で最初の寺「法興寺(飛鳥寺)」が完成。
さらにその頃、摂政として政治を行っていた聖徳太子は、遣隋使を派遣し中国と対等の関係を求め働きかけます。
四天王寺、法隆寺などを建立し、日本仏教は次第に形成されていくのです。

宗派が確立されていくきっかけとなる出来事は、それから200年以上後。
国家仏教が隆盛し、東大寺、興福寺などの南都の諸寺が強大な権力を持ち、官僧が世俗化していくなど、そうした南都仏教からの脱却をはかろうと恒武天皇は804年、中国(唐)の仏法を学ぶよう遣唐使集団に最澄を乗せます。
その船にはまだ無名だった空海も入唐僧に加えられていました。

一年後、最澄は中国天台宗と密教の伝法も受けて帰国しました。
入唐から二年後、空海は恵果から密教を学び、経典や曼荼羅などの仏具をまとまって持ち帰ってきます。
そうして最澄は比叡山に天台宗を、空海は高野山に真言宗を開いていくのです。

いつか機会があったら(?)続きを書くかもしれません。