山咲雛子の日記

毎日何かを好き☆と感じ、感謝して、頑張っています。時間が沢山あったら、ゆっくり自然の中で過ごしたいです♪旅もしたいな♪

永林寺

2013年07月30日 | 神社・仏閣

越後のミケランジェロと呼ばれている石川雲蝶。

その作品が見たくて魚沼市の永林寺へ。

永林寺は、約500年前に創建され、徳川家康の孫松平忠直公(作州津山藩祖)、その子松平光長公(越後高田藩主)の香華所として本堂建築を認可され、三葉葵の紋章を許された由緒深い曹洞宗の名刹。

江戸彫り御三家の石川流「石川雲蝶」の作品群100点余りが観られるとか。

まずは拝観料をおさめ、堂内へ。

自由拝観ですが、写真撮影はできません。

 

石川雲蝶について、以下永林寺さんのHPより拝借しました。

嘉永2年に、現在の三条市、法華宗総本山本成寺の檀家総代であり二ノ町の金物商、内山又蔵に連れられ三条に来たのが雲蝶36歳の時です。


この後、永林寺との縁は、伽藍復興に奔走していた時の住職、二十二世円応弁成大和尚が、大工棟梁関与兵衛に請願され三条に鑿(のみ)を始め金物類一式を購入に出かけ、三条の賭場で雲蝶と出会ったのが、嘉永5年と伝えられます。

 

 

当時、永林寺の本堂は老朽化し再建することになったが、江戸時代は本家より「うまいものを食べてはいけない 良い家を建ててはいけない」という風習があり、なかなか再建の許可がおりず、松平公上屋敷に「忠直・光長公の位牌堂を建立する」といって本堂着工にあたりました。上屋敷に直訴の折、夜店を出していたのが内山又蔵であり、その折にずんぐりむっくりした男で鑿を取っ替えひっかえ見ていたのが雲蝶その人でした。
「良い酒と鑿(のみ)は終生与える」という条件で越後入りしていたのです。

弁成和尚と雲蝶は共に気が短く、爪をかみ、酒を愛し百年の知己の如く語り合ったとされ、2人で大賭博をしたとの逸話があり、その内容は、本成寺の完成後、雲蝶が勝ったら金銭の支払を成し、弁成和尚が勝ったら永林寺本堂一杯の力作を手間暇を惜しまず製作するというものだったそうです。
結果は弁成和尚の勝ちで、雲蝶が約束通り永林寺へ来たのが、本成寺の納骨堂(明治28年に大火で焼失)が完成した後の安政2年であり、慶応3年までの13年間滞在し欄間を始めとする彫工・絵画を数多く残し、その後明治14年に再度来山し、晩年期最後の作品を完成させたのが、燈籠台と香炉台です。

好きな酒ばかり飲み、賭博好きという破天荒な気性の反面、ひとたび気が乗ったとなると、彫りの鬼と化して作品と向き合ったとも伝えられ、その生き様は決して優等生とは言えないものの、人間味溢れる憎めない人柄であったのでしょう。
江戸に生まれ、越後の地でその才能のすべてを出し尽くした雲蝶は、三条市本成寺で今も自らが残した作品を見守るかのようにしてひっそりと眠っています。

 

大賭博と13年の作品制作、そして素晴らしい雲蝶の遺産、そのギャップが印象的ですよね。

尚、法華宗の総本山三条市の本成寺は、明治26年の火災で石川雲蝶の作品は焼失したものの、難を逃れた数点の作品が寺宝として現在展示されているそうです。

蒸気写真は、魚沼市のHPより、永林寺の欄間「雲水龍」です。

素晴らしい神業を持った彫物師であることが解っていただけるでしょうか。

雲蝶の作品群が素晴らしいだけに、興味がコンコンと沸きあがり、いろいろと政策への経緯を知りたくなってしまいます。

ですが、残念ながら永林寺では展示の解説が少ないと感じました。

しかも雲蝶の芸術品とともにお寺オリジナルのグッズや冊子などの販売も散見され、個人的にはそのギャップも印象的でした。

 

■永林寺

住所 新潟県魚沼市根小屋1765
TEL 025-794-2266
拝観時間 9:00 ~ 17:00/冬季9:30~16:00

拝観料 300円