【巨人4-0南海】外角へ若干落ちた球に南海の4番野村克也捕手は反応した。強引に引っ張った打球は左翼へのライナー。球が落ちた分、バットの芯を外れたことで打球の勢いはなく、柳田利夫左翼手がほぼ定位置でキャッチした。
後楽園球場での日本シリーズ第6戦、巨人・益田昭雄投手が南海打線を散発5安打無四球に抑え完封勝利。巨人は4勝2敗でシリーズを制覇。前年に続き南海を倒しV2を達成した。
山口・久賀高から山陽特殊製鋼を経てプロ入り5年目。公式戦81試合登板も完封どころか完投すらなかった益田が日本シリーズ初の先発でプロ入り初の完投完封勝利。しかも日本一を決めたシーズンの締めくくりのゲームでの快挙に、長嶋茂雄三塁手や王貞治一塁手が駆け寄りガッチリ握手。「信じられない。無我夢中で投げただけ。完封したんですか?僕…」と半信半疑の様子。川上哲治監督の胴上げが始まっても、立役者の一人でありながら輪の外でわけもわからず“ワッショイ、ワッショイ”とかけ声をかけている自分が不思議でならなかった。
登板するはずのない試合だった。前日の第5戦、巨人は先発に中村稔投手を立てたが、試合はもつれて延長戦に。勝てば優勝、負ければ3勝2敗と詰め寄られる。一気に勝負をかけた川上監督は、第5戦先発予定の城之内邦雄投手を9回から投入。しかし、サヨナラ負けを喫した上に城之内は5回3分の1も投げていた。
第6戦の先発投手がいなくなった。第2戦で乱調だったルーキーの堀内恒夫投手でいくか、強行して城之内の連投か…。移動日なしで大阪から東京へ向かう新幹線の中で川上は思案に暮れた。午後11時すぎに東京・本郷の宿舎に泊まった巨人ナインだったが、川上は風呂も入らず自室にこもって考えた結果、シーズン終盤に4勝をマークした益田に託すことに決めた。川上監督は藤田元司投手コーチに言った。「球威は堀内だが、コントロールでは益田の方がいい。負けられない一戦だ。確実にストライクの取れる投手でいく」。
当の本人に先発が告げられたのは当日になってから。試合前に外野の芝生の上をダッシュし、体をほぐしていた時だった。「マスッ!お前きょうアタマからな」。藤田コーチの突然の指名にきょとんとする益田だった。
期待通り、制球力は目を見張るものがあった。高校まで軟式野球しかやっていなかった益田だが、コントロールだけなら誰にも負けない自身があった。全113球中ボール球はわずか35球。ストライクからボールになるカーブやスクリューの絶妙なコントロールでファウルを打たせたり、凡打に仕留めたりと変幻自在。ストレートこそ速くなかったが、コントロールだけは最後まで乱れなかった。
大役を果たした益田はその4日後にエライことをした。来日中の米大リーグ、ドジャース相手に3安打6奪三振でこれまた完封。初完封から2試合連続というのも記録に値するが、大リーグ相手の完封勝利は、62年11月17日に阪神・村山実投手がデトロイト・タイガース相手に成し遂げて以来、2度目の快挙だった。
しかし、巨人時代はこの短いピークだけで終わった。翌年期待に応えられず4試合登板0勝に終わると、68年は西鉄に移籍。68年7勝、翌年8勝と気を吐いたが、残念ながら「黒い霧事件」で退団。引退後はタクシーの運転手として福岡で頑張っていた。
後楽園球場での日本シリーズ第6戦、巨人・益田昭雄投手が南海打線を散発5安打無四球に抑え完封勝利。巨人は4勝2敗でシリーズを制覇。前年に続き南海を倒しV2を達成した。
山口・久賀高から山陽特殊製鋼を経てプロ入り5年目。公式戦81試合登板も完封どころか完投すらなかった益田が日本シリーズ初の先発でプロ入り初の完投完封勝利。しかも日本一を決めたシーズンの締めくくりのゲームでの快挙に、長嶋茂雄三塁手や王貞治一塁手が駆け寄りガッチリ握手。「信じられない。無我夢中で投げただけ。完封したんですか?僕…」と半信半疑の様子。川上哲治監督の胴上げが始まっても、立役者の一人でありながら輪の外でわけもわからず“ワッショイ、ワッショイ”とかけ声をかけている自分が不思議でならなかった。
登板するはずのない試合だった。前日の第5戦、巨人は先発に中村稔投手を立てたが、試合はもつれて延長戦に。勝てば優勝、負ければ3勝2敗と詰め寄られる。一気に勝負をかけた川上監督は、第5戦先発予定の城之内邦雄投手を9回から投入。しかし、サヨナラ負けを喫した上に城之内は5回3分の1も投げていた。
第6戦の先発投手がいなくなった。第2戦で乱調だったルーキーの堀内恒夫投手でいくか、強行して城之内の連投か…。移動日なしで大阪から東京へ向かう新幹線の中で川上は思案に暮れた。午後11時すぎに東京・本郷の宿舎に泊まった巨人ナインだったが、川上は風呂も入らず自室にこもって考えた結果、シーズン終盤に4勝をマークした益田に託すことに決めた。川上監督は藤田元司投手コーチに言った。「球威は堀内だが、コントロールでは益田の方がいい。負けられない一戦だ。確実にストライクの取れる投手でいく」。
当の本人に先発が告げられたのは当日になってから。試合前に外野の芝生の上をダッシュし、体をほぐしていた時だった。「マスッ!お前きょうアタマからな」。藤田コーチの突然の指名にきょとんとする益田だった。
期待通り、制球力は目を見張るものがあった。高校まで軟式野球しかやっていなかった益田だが、コントロールだけなら誰にも負けない自身があった。全113球中ボール球はわずか35球。ストライクからボールになるカーブやスクリューの絶妙なコントロールでファウルを打たせたり、凡打に仕留めたりと変幻自在。ストレートこそ速くなかったが、コントロールだけは最後まで乱れなかった。
大役を果たした益田はその4日後にエライことをした。来日中の米大リーグ、ドジャース相手に3安打6奪三振でこれまた完封。初完封から2試合連続というのも記録に値するが、大リーグ相手の完封勝利は、62年11月17日に阪神・村山実投手がデトロイト・タイガース相手に成し遂げて以来、2度目の快挙だった。
しかし、巨人時代はこの短いピークだけで終わった。翌年期待に応えられず4試合登板0勝に終わると、68年は西鉄に移籍。68年7勝、翌年8勝と気を吐いたが、残念ながら「黒い霧事件」で退団。引退後はタクシーの運転手として福岡で頑張っていた。