1961年
高校球界のナンバーワン投手として去就が注目されていた法政二高の柴田勲投手(17)は十九日、自宅(横浜市中区本牧元町)ではじめて巨人入りの意思表示を行った。
同投手の獲得には九チームがのり出し、秋季国体の終了した十三日には巨人、南海、大洋の三球団に焦点がしぼられていた。三球団のうちどこを選ぶか家族との間で協議を重ねた結果、十八日夜の親族会議で「本人の意思を尊重する」との結論に達した。席上、柴田投手が巨人入りの意思を明らかにしたので、家族全員がこれに賛成、十九日柴田宅を訪れた沢田スカウトに正式に意思を伝えた。
ー巨人を選んだわけは。
柴田 小さいときから巨人が好きで、あこがれのチームでした。どうせ野球をするならプロで、それも自分の好きな球団で思いきりプレーしたかった。
ー巨人入りを決意したのはいつですか。
柴田 いつというはっきりした日はわかりません。昨夜家の人たちとよく話し合った上で最終結論をだしたわけです。きょうの午前中に監督さん(田丸法大監督)にもその旨を伝えました。しっかりやれと励ましてくれました。今後は学校に行きながらランニングをつづけ、できれば多摩川の巨人の練習にも参加したいと思っています。
三十四年(一年生)夏の甲子園大会に出場して対西条戦の七回から初登板。三十五年の大会では四試合を連投して初優勝。三十六年春のセンバツ大会でも全試合に出場して優勝し、夏、春の連続優勝の偉業をとげる原動力となった。ことしの選手権大会では準決勝で浪商(優勝)に延長十一回4-2で敗れているが、上手投げの本格派投手で速球に威力があり、高校球界では屈指の投手。甲子園大会の通算成績は14試合に登板、103回2/3投げて被安打63、奪三振113、自責点7、防御率0.61。またチームの中心バッターとして甲子園では四割一分三厘をマークしている。身長1㍍76、体重70㌔、右投げ右打ち。
高校球界のナンバーワン投手として去就が注目されていた法政二高の柴田勲投手(17)は十九日、自宅(横浜市中区本牧元町)ではじめて巨人入りの意思表示を行った。
同投手の獲得には九チームがのり出し、秋季国体の終了した十三日には巨人、南海、大洋の三球団に焦点がしぼられていた。三球団のうちどこを選ぶか家族との間で協議を重ねた結果、十八日夜の親族会議で「本人の意思を尊重する」との結論に達した。席上、柴田投手が巨人入りの意思を明らかにしたので、家族全員がこれに賛成、十九日柴田宅を訪れた沢田スカウトに正式に意思を伝えた。
ー巨人を選んだわけは。
柴田 小さいときから巨人が好きで、あこがれのチームでした。どうせ野球をするならプロで、それも自分の好きな球団で思いきりプレーしたかった。
ー巨人入りを決意したのはいつですか。
柴田 いつというはっきりした日はわかりません。昨夜家の人たちとよく話し合った上で最終結論をだしたわけです。きょうの午前中に監督さん(田丸法大監督)にもその旨を伝えました。しっかりやれと励ましてくれました。今後は学校に行きながらランニングをつづけ、できれば多摩川の巨人の練習にも参加したいと思っています。
三十四年(一年生)夏の甲子園大会に出場して対西条戦の七回から初登板。三十五年の大会では四試合を連投して初優勝。三十六年春のセンバツ大会でも全試合に出場して優勝し、夏、春の連続優勝の偉業をとげる原動力となった。ことしの選手権大会では準決勝で浪商(優勝)に延長十一回4-2で敗れているが、上手投げの本格派投手で速球に威力があり、高校球界では屈指の投手。甲子園大会の通算成績は14試合に登板、103回2/3投げて被安打63、奪三振113、自責点7、防御率0.61。またチームの中心バッターとして甲子園では四割一分三厘をマークしている。身長1㍍76、体重70㌔、右投げ右打ち。