プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鬼頭洋

2020-12-21 13:07:53 | 日記

1974年

大洋は十一日、東京・京橋の球団事務所で、四十五年にノーヒット・ノーラン試合を完成した鬼頭洋投手、王キラーとして活躍した平岡一郎投手、それに古田忠士外野手、飯田敏光、高松秀恒両投手の五人に整理通告をした。鬼頭、平岡、古田は任意引退。飯田と高松は自由契約。飯田だけは太平洋入団が内定しているが、あとの四人はお先まっ暗。ボウ然とした表情だった。シーズン終了後初めて行ったこの荒療治。鬼頭、平岡、古田ら力が衰えたとはいえ、生え抜きの選手を整理するのはチームのぬるま湯ムードを一掃しようという秋山新監督のねらいからきている。このオフに大洋は江藤、辻佳を放出したが、二人はいずれも他球団から獲得した選手、体質改善の大手術とはほど遠い応急処置に過ぎなかった。このため秋山監督は一部主力選手をトレーと要因に挙げたが、中部オーナーの猛反対にあい、仕方なく年棒の高い鬼頭らを構想外ということでの手術に踏み切った。「君は来季の構想から外れているから…」。横田球団社長の一方的な解雇通告に、この日、一番に呼び出された鬼頭は泣き出しそうな顔で事務所から出てきた。「ダウン覚悟の契約の話かと思ってきたら、いきなり解雇通告。何と答えたらいいかわからなかった。春先のオープン戦で左ヒジをまたこわし、ほとんど戦力にならなかったから、ひょっとしたらーと思ったことはあった。でもまだ投げられる自信はあったので、そんな気持ちを強く否定して来年にかけていたんです」と鬼頭は頭を抱えたが、昨年八月に移ったマンションは家賃が六万円。この通告で、明子夫人と相談のうえ、近日中に安いところへ引っ越すという。古田が呼ばれ、平岡が呼ばれ、飯田、高松も社長室へ消えた。だれも同じ整理通告であった。平岡はすでにこの日を覚悟していたのか、数日前から知人のつてを頼ってアルバイトを始めている。高松は大洋入り前のコック業に戻るか、長田の紹介による国際プロレスの営業マンになるかよく考えるそうだ。古田は今春のイースタン・リーグで佐藤(ヤクルト)から顔面に死球を受け、シーズンを棒に振ったあげくのこの通告だ。「なんとか面倒は見てやりたい」という球団の配慮がせめてもの慰めである。

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1975年 プロ野球退団者

2020-12-21 12:51:28 | 日記

1975年

 

 

ことしも多くのプロ野球選手が現役からしりぞいた。コーチに専念する人もあれば、不況下の社会で再スタートする人もいます。そんな人たちの活躍のあとを振り返ってみた。百勝投手が二人やめた。三浦清弘(太平洋)と森中千香良(大洋)両投手です。三浦は1957年南海入りしましたが、最初の五年間は鳴かず飛ばずで2勝6敗。しかし、62年に17勝8敗をあげて一躍ローテーションに組み込まれた。地味であまり目立たなかったが、長持ちした。73年太平洋に移籍してことしは主将をつとめたが、「ここがひきどき」と任意引退となった。553試合に登板して132勝104敗、防御率3.09。森中は1960年に南海入りして、その後大洋ー日本ハムと歩いた。昨年暮れ、日本ハムを自由契約になり、古巣の大洋に35歳ながらテスト生として参加、ことしのキャンプで本採用になったが、やはり力の衰えはかくせず、1勝1敗で見切りをつけた。負けん気の強い投手で、ピッチングも強気だった。517試合に登板して114勝108敗、防御率3.95。ノーヒット・ノーランの経験者鬼頭洋(大洋)もユニホームを脱ぐ。29勝41敗、防御率2.88。サラリーマンとして再出発するという。このほか、伊藤久敏(太平洋)、宮崎昭二(阪神)ら、かつて中堅投手として働いた人たちもやめる。70年ドラフト1位だった氏家雅之(中日)は、公式戦に登板しないまま姿を消した。69年ドラフト1位の片岡建(日本ハム)はスコアラーに転向した。土屋紘(ロッテ)、杉山重雄(南海)、大場隆広(近鉄)、乗替寿好(広島)らもユニホームを脱ぐ。打者でもベテランが現役を去る。まず山本一義(広島)だが、1961年プロ入りし、15シーズン働いたが、ことしの初優勝が引退の花道になった。ベストテン入り5度、タイトルこそとらなかったが通算打率二割七分、ホームラン171本、655打点はりっぱな成績。今後は打撃コーチとして後輩の指導にあたる。ロッテの醍醐猛夫、前田益穂も引退する。醍醐は1775試合、前田は1799に出場した大ベテラン。醍醐は捕手としてパ・リーグ有数といわれた。成田、木樽、村田らは、かれの手で育てられた。二割三分四厘、81ホーマー、472打点。前田は内野ならどこでもこなす器用な選手だったが地味なためあまり人気が出なかった。二割四分九厘、117ホーマー、492打点をマーク、プロ野球史に残る選手といえましょう。醍醐は二軍監督、前田は二軍コーチとして引き続きロッテのユニホームを着る。住友平(阪急)、辻佳紀(阪神)もコーチ専任になって、プレーはしない。野球と縁を切ったのは日下正勝(大洋)、今西和男(阪神)、筒井良紀(南海)、大塚徹(南海)、忍全功(太平洋)らがいる。一年かぎりで日本を去った外人選手はアンドリウス(近鉄)、ジェスター(日本ハム)、カルバー(日本ハム)、マクナルティ(ロッテ)、バチスタ(ロッテ)と多い。

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