1969年
西鉄から巨人に移った昨年、四試合に登板して5イニング投げただけ、以後はバッティング投手になりさがっていた井上善が好投した。第二試合の四回、2-1と広島が逆転したところでリリーフに出て、その後を1安打2四球に押え、1点差を守り切った。近鉄でコーチをしていた根本監督には西鉄のエースとしてのイメージがある。「この男はまだまだ使える」と見込み、キャンプではコーチよりも監督がつきっきりで指導、下がっていた腕をスリークォーターに戻した。広島が最後の野球生活という井上善は、監督の期待にこたえるべくフォーム固めに取り組み、一日四百ー五百球のノルマにも耐えた。体重はキャンプ・イン数日で七㌔も減った。しかし、オープン戦の中盤ごろでは、復調の見通しはまだまだ暗いものだった。十五日の阪急戦に2イニング、二十五日の南海戦に4イニング投げてともに無失点だったが被安打は6。リリーフしたばかりの五回、先頭浜村を2-2からカーブで、村上も同じカウントから内角直球でいずれも三振に仕止め、九回までをピタリと押えたのである。井上善は「インコースへ思い切って投げたのが成功したが、捕手の田中さんのリードもよかった」と新人のようにけんそんしていたが、根本監督は「まだフォームに気を使っている。もっとスピードが出るはず」と欲の深いことを言いながらも「内角で勝負できるようになったのは本物」と目を細める。第一試合で完投勝ちした安仁屋とともに広島の守りの野球にまた一つの柱ができたといえそうだ。
西鉄から巨人に移った昨年、四試合に登板して5イニング投げただけ、以後はバッティング投手になりさがっていた井上善が好投した。第二試合の四回、2-1と広島が逆転したところでリリーフに出て、その後を1安打2四球に押え、1点差を守り切った。近鉄でコーチをしていた根本監督には西鉄のエースとしてのイメージがある。「この男はまだまだ使える」と見込み、キャンプではコーチよりも監督がつきっきりで指導、下がっていた腕をスリークォーターに戻した。広島が最後の野球生活という井上善は、監督の期待にこたえるべくフォーム固めに取り組み、一日四百ー五百球のノルマにも耐えた。体重はキャンプ・イン数日で七㌔も減った。しかし、オープン戦の中盤ごろでは、復調の見通しはまだまだ暗いものだった。十五日の阪急戦に2イニング、二十五日の南海戦に4イニング投げてともに無失点だったが被安打は6。リリーフしたばかりの五回、先頭浜村を2-2からカーブで、村上も同じカウントから内角直球でいずれも三振に仕止め、九回までをピタリと押えたのである。井上善は「インコースへ思い切って投げたのが成功したが、捕手の田中さんのリードもよかった」と新人のようにけんそんしていたが、根本監督は「まだフォームに気を使っている。もっとスピードが出るはず」と欲の深いことを言いながらも「内角で勝負できるようになったのは本物」と目を細める。第一試合で完投勝ちした安仁屋とともに広島の守りの野球にまた一つの柱ができたといえそうだ。
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