プロ野球 OB投手資料ブログ

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市原稔

2020-08-06 14:20:42 | 日記
1969年

市原稔(21)=171㌢、67㌔、右投げ右打ち=早大出。南海の新人である。ここまでならふつうのルーキーと変わりないが、大学時代の四年間というもの、野球部に全然籍を置いていない。早大教育学部教育学科で学問に励んでいた人物である。そして、三月二十五七日の卒業式には、卒業証書と体育の教員免状(高校二級、中学一級)を受け取ることになっている。だが市原は現在プロ野球選手だ。テストで入団した彼は「なにかで自分の力をためしてみようと思い、高校時代やっていた野球を選びました」と意欲を燃やし、急転してことしから学問でなく、野球に励むことになったのだ。市原が野球を始めたのは千葉市立葛城中学時代からで、千葉東高では二塁手として活躍した。彼の存在は注目されるほどのものではなかったが「大学へはいって、神宮でひとあばれしてやろうか」という夢はあったらしい。だが早大の入学試験にはみごとパスしたものの、市原という選手は野球部の新入生の中にはいなかった。「一応野球部にはいろうと思ったが、自分は野球をやるために大学へはいったのではない」と考えたという。しかし「なぜ大学野球を断念したかといわれると、それははっきり説明する理由はないんです」といいながらも、少し考えてから「野球をやると授業を受けられないということを耳にしたことがある。それが一番の原因だったかも知れませんね」と笑う。では、四年間全然野球をやっていなかったかというと「そうでもないです」という。市原は大学へ通学しながら母校千葉東高でノックバットを握り、学生監督として総勢二十人の部下を率いて、四十一年秋には全くの無名チームを関東大会にまで進出させている。しかし、高校では市原監督であったかもしれないが、プロの世界へ飛び込んだ現在では、キャリアも実績もない。全くの無名選手である。彼にあるのは冒険心と、野球に打ち込んでみたいという人一倍の情熱だけだ。昨年のオフの新聞で同期生である田淵、富田らには一千万円だの二千万円だの、なんと花やかであったが、死にもの狂いでテストを受けた市原には、そんなものはなかった。「どうしてもプロ野球の世界で自分の力をためしてみたい」と思った市原は、スポーツ紙で各球団のテスト生募集という記事を目の色を変えて捜したのである。そしてまず産経に書類を提出したが、二十一歳という年齢はテストするまでもないと見られたのか、書類選考で落とされてしまった。東映にも受けにいったが、惜しくも最終選考で失格。市原は最後の望みを南海に託した。「どうしても合格しなければ…」と必死の彼は、テストを担当したコーチ陣の前で「十八歳です」と堂々と三つもサバを読んだ。このときの市原はずうずうしいというより「うかりたい」という叫び声であったに違いない。こうした努力のかいがあって合格したが、四年間のブランクというものは見のがせない。だが「これでだめだったとしても悔いはないですよ」と現代っ子らしい割り切ったところを見せている。彼の名前がいつになったら第一線に出てくるかわからないが、市原は「やることだけはやってみます」と自分の晴れ姿を夢みて連日の練習に取り組んでいる。

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