プロ野球 OB投手資料ブログ

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山田正雄

2017-02-09 22:00:55 | 日記
「今年はボクの再出発の年です」-今シーズン東京オリオンズの期待の星である山田はきっぱりと決意を示す一方自分自身にもいいきかせている。昨年の暮れ(12月2日)に相愛の仲であった藤延紀子さん(24)=青山学院大出=と結ばれ家庭をもった自覚もあろうがプロ入り6年目の昨年、代打が多かったが素質があると認められていた打撃にようやく花咲かせて遅まきながら自信を持ったことが大きい。山田正雄ーその名はまだ大向うなうならせるほど署名ではないが東都のベースボール・ファンならあるいは明治高校の左腕投手としてのご記憶があるかも知れない。それはともかく今春のハワイ・キャンプの当り屋だといわれ今シーズンのオリオンズの成長株で気の早い連中は新しい五番打者誕生!と責めていた。そして濃人監督もオープン戦一戦(対阪神)に彼を五番として起用している。もっともこの試合には快打がみられずなでるようなバッティングにはもの足りなさが感じられた。キャンプではよく打ち練習では馬鹿当たりするが本番になると腕がすくむーこれでは心もとないが彼にとって大切なのは一試合にでも多く試合に出て実戦に役立つバッティングを肌で感じとることだろう。プロ入り七年目ーしかも今年は年男。真価を発揮するためにも条件は揃った。アルトマン、ロペスを加えて久々に優勝をねらう東京オリオンズ。彼にも攻撃部門の一躍をねらうヒーローになってもらいたい。それには山田自身も悲願としている常時出場いかんが問題となってくる。二外人によって活躍の場がちがってくるがこれにつづくのが池辺西田井石得津とライバルも多くその前途は厳しいが彼には2年間の闘病生活も克服した不撓不屈の精神と貴重な体験があり隠れた闘志でこの難関を突破していくことだろう。山田正雄は東京は港区青山5の6の18の現在の家で昭和19年9月6日に誕生した。父仲司さん(64)母千代さん(54)の一人息子。当時は戦争も末期で苦しい状態だったがそれだけに両親は何としてでもこの子を大きく育てあげたい信念でいた。やがて終戦ーミルクも容易に入手できない混乱期であったがその逆境にもめげず一人息子はスクスクと育ち両親をホッとさせたのである。青南小学校から青山中学と山田はスポーツ好きの少年時代を送った。とりわけ野球には目がなく三度のメシよりも大好きという打ちこみようであった。また野球に限らず水泳も得意であったという。父も母も一人息子の可愛さも手伝って彼には好きなことを思いきりさせてやろうという主義であった。青山中学ではピッチャーで四番打者として活躍。3年のときには来日したアメリカの高校チームとの一戦にオール東京の4番バッターとして選ばれている。この当時から二、三の高校から勧誘をうけている。そして高校も野球なしでは考えられず甲子園出場の夢を託して名門明治高校の門をたたいた。明治高は開校50年の歴史を持ち伝統ある野球部があった。難があるといえば都心の学校だけに土地がせまくグラウンドらしいグラウンドもなく結局練習は兄貴分の明大グラウンド(当時杉並区和泉町)を借用してやらなければならなかった。しかし若者たちにとってそうした不便さもあまり苦にならなかったようである。明高の猛練習は全国にその名をとどろかしていた。松田龍太郎監督(当時)の練習法はとても厳しいものであった。正月三が日をのぞいては雨の日も風の日も練習はつづけられた。山田のこの松田式スパルタ練習によってピンチも動ぜぬ強い精神力が養われていったのである。一二年は打球を生かして外野手として3番を打っていたのだがその左腕を惜しんだ。松田監督が投手にコンバートした。2年の秋である。左腕からくり出す速球は東京の高校界では№1といわれるほどだった。投手に転向した2年の秋の新人戦では一試合18三振奪取という快挙もやってのけている。このとき東の山田、西の林といわれるほど中京商から南海入りした林と並んで高校球界屈指の好投手と言われている。しかし最後の夢とたのんだ夏の東京予選ではライバル法政一高に敗れ去って甲子園の道をとざされた。甲子園がだめなら神宮球場でーというのが野球選手の夢である。しかも明高はエスカレーター式に明大に進学できるという特権がある。だが家庭の事情で大学進学をあきらめねばならなくなったとき大毎オリオンズからの誘いになった。最初のうちは苦学してでも大学進学を主張していた山田だったが片岡スカウト(現阪急)の熱意におされてプロ入りを決意し神宮球場への夢をすて去ったのである。37年秋であった。もちろんファームで鍛えられるのは覚悟のうえでほとんどをイースタン・リーグでがんばった。当時の大毎のファームは強力で西田石谷迫田辻野といった若手をどしどし一軍に送りこみその使命を十二分に果たしていた。監督はカイザー・田中氏であった。 天性の素質にめぐまれた山田は着実に伸び研修明けと同時に一軍のベンチ入りしてしばしば好打を放っていた。ところが入団一年目のシーズンが終り秋季練習が行われたころ山田は予期せぬ病魔に襲われて五カ月間の闘病生活を送ることになった。急性肋膜炎の診断であった。体が資本であるプロ選手が胸を病むーこれは致命的なショックだった。彼は暗い毎日を日本女子医大の病床で送っていた。だがその闘病中かれの焦燥を救ってくれたのは一度は三枚目近くまで落ちながら幕内までカムバックした松前山関の敢闘であり、この子は将来性がある。病気が全快するまで絶対クビにしないで欲しい。もう一度チャンスを与えてやってくれと会社に懇願してくれた本堂監督の愛情であった。半年近くの入院、一年半の自宅療養ー冷たいといわれるプロの世界でこれまで球団が面倒をみてくれた例はないのではないがその陰には本堂氏の遺言も効果があったと思うが日ごろの彼の人間性を周囲のだれもが買っていてくれたのではなかろうか。またそれに応えて昨年みごとに再起した。昨年の成績は112打数26安打打率・228であった。開幕もまじかい。今シーズン山田の名がスタメンから聞かれるように彼の両親、愛妻とともに祈ろうではないか。

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