プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

豊平晋一

2012-05-11 23:54:35 | 日記
・1978年
阪神の豊平が今季外野に転向。自慢の打撃にようやく磨きがかかってきた。プロ入り3年目。入団した年は一塁手だったが、シーズン途中で手薄な三塁に転向。そしてまた松下が投手から三塁にコンバートされたため、やむなく外野へまわされることになったのだ。どちらかといえば伸び悩んでいた。入団した年、途中から一軍の安芸キャンプに合流。そこでいきなりシートバッティングでサク越えのアーチをかけ、将来を楽しませたものだった。しかし、変化球になかなかついていけず、パワーも影をひそめたまま。そのうえ不慣れなポジションに神経を遣っていくうち、すっかり伸び悩み状態に陥った。しかし、外野コンバートによりバッティングも本来の力を出し始めた。「やわらかみが出てきた。もともと素質があるんだし、本来なら中軸を打っていいはず。今年で3年目。豊平にとって勝負の年だ」とは二軍首脳陣。中京商時代は甲子園に出場、豪快なホームランを放ちスカウト連をアッといわせた。ほとんどの球団から誘いを受けたが、早大進学を希望したため各球団が手をひいたという、いきさつがある。そこを強引に説き伏せてプロ入りさせたのが阪神。それだけに豊平の成長が待たれるところである。

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北川裕司

2012-05-11 23:53:33 | 日記
1981年
・左手首のけんしょう炎が治らず、ついに選手生命を断ったのが北川裕司内野手。神奈川大学時代、大型内野手として騒がれドラフト5位で51年ロッテ入り。52年には22試合に出場、しかし54年に痛めた左手首が完治せず、とうとうファーム暮らし。55年はイースタン66試合に出場、打率236、本塁打3、打点27で、これが最後の記録となった。徳島の故郷に帰り身の振り方を相談してきたが、どうせ飛び込んだ野球の世界なら、裏方さんに回るのもいい勉強ということで、球団との話し合いがつきスコアラーに転出だ。明るく責任感が強く、寮長も務めた経験がある。ことしからは、山崎スコアラーの片腕として、ネット裏から活躍することになった。

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笹川博

2012-05-11 23:52:35 | 日記
1978年
・「怒られてだす赤い舌」からついたアダ名が「ぺロ」大洋ファーム組の5番打者でもあり、ヌシ的存在だった捕手の笹川が、7年目にしてようやく「一本立ち」へメドをつけはじめた。オープン戦終盤で福嶋に代わって後半守備についたり、代打に出たり。「田代に負けないあのパワーをなんとか生かしたい。センスはいいから、うまく育てば必ずモノになる」と、別当監督。47年、大宮高から大洋入りしたこの笹川。ドラフト7位という指名順からわかる通り「未完の大型捕手」として「多摩川道場」で鍛えられていた。185センチ、85キロはチーム1のキングサイズだが、伸び悩みが続いた。ところが昨年、イースタンで打率243ながら4ホーマーして打撃20傑のしんがりに顔を出した。折りも折りで5年ぶりに復帰した土井ヘッドコーチがこの笹川に目をつけ、自主トレ、キャンプでマンツーマンの英才教育。今季も大洋捕手陣は福嶋、辻、伊藤と多士済々だが、笹川は多摩川組からの脱出に必死。「一軍入りのラストチャンスだと思って歯を食いしばっているんです。今年こそやらなきゃ・・・。」とは、今季にかける決意を感じさせる言葉だ。女優の岡崎友紀とは故郷の埼玉で小学、中学を通じ同級生。「オレが一人前になったら一緒にメシでも食おう」と、約束したものの、向こうが先にスターの仲間入りをしてしまっただけにシャクの種。これがまた7年目の奮起一番につながっている。厚い壁を破って開幕から晴れて一軍のベンチが実現するか、じっと見守りたい選手の1人だ。

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真鍋幹三

2012-05-11 23:51:38 | 日記
1972年
・「一億円の足」といわれる阪急の福本の足を封じて真鍋捕手は鼻高々。この真鍋は辻、岩木、児玉に次ぐ第四の捕手、だから二盗を刺した喜びはことのほか大きかったようだ。人に会うと福本を刺した自慢話が飛び出す。「あの日、対阪急14回戦はグラウンドが軟弱だったので刺す自信はあった。二塁にいいタマが行ったでしょう。このところ肩の調子が非常にいいんです」と問わず語りになめらかなもの。「翌日の新聞写真を見てみると2メートル以上も手前のところで一枝さんが球を捕っている。福本はみんながいうほど速くないかもしれませんね」と得意満面。福本が塁に出ると戦戦きょうきょうの捕手が多い中でこれはまた大胆な発言。「ボクはちっともこわくありません」真鍋はどこまでも強気であった。

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関根知雄

2012-05-11 23:50:53 | 日記
1971年
・東京球場での開幕戦に、相川の後を守って二塁の守備固めに入った関根は、翌11日のゲームでは5回から出場、ロッテ小山から2打数2安打で、唯一の得点をあげた。そうして開幕3戦目からは、2番セカンドでスタメン起用され3打数1安打2打点を叩き出し以降も、定位置を確保、4月16日現在の打率294はチーム3番目の好成績だ。関根はプロ入りしてすでに8年目だが、長かった下積みのためファンに馴染みが薄かったが、39年にサッポロ・ビールから強打の遊撃手として大洋に入団、将来を嘱望されたが、まとまった感じで秀でたものがなくレギュラーを獲得できなかった。守備は二塁と遊撃をこなすが派手さはない。特徴は勝負強いバッティングとその快足だろう。向う意気の強さは大洋時代からチーム内で1,2を争うほどだった。172センチ、70キロの割には長打力もあり、シャープでもある。「大洋時代にフル出場の目標を果たせなかったので近鉄ではきっと常時出場してみせる」こう語る根性の男・関根は弱い内野陣にカツを入れ、懸命の努力を続けている。

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山中賢次

2012-05-11 23:50:33 | 日記
投球フォーム・・・アンダースロー


球種・・・ストレート、カーブ、シンカー


1985年
・山田が左ヒザの故障でダウンしたが、その穴を多少とも埋めるかのような下手投げの新星が現れた。その名も山中。今年で3年目だが、昨年は左ヒザの半月板を痛めて1年間を棒に振ってしまった。現在7分通り回復し今年は「秘密兵器」といわれている。「ヒザが治れば、という条件つきだが、体が柔らかいのでフォームにも無理がない。コントロールも良いので、一つ自分のものをつかんだら、グッとよくなる。一軍に行く力は秘めている」と足立二軍投手コーチは期待する
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松尾幸政

2012-05-11 23:49:08 | 日記
1979年
・プロ入り4年目の初体験だった。オープン戦とはいえ、待ちに待った「先発投手」だ。5回投げて被安打4.無四球、無失点。そして勝利投手。51年にプロ入りした男には数奇のドラマがあった。松尾が、打球を受けて昏倒したのは52年3月12日、藤井寺球場での練習中だった。左側頭部の複雑骨折。不思議にこの松尾を気にとめていた西本監督は「お母さんに知らせたか!」と、間髪入れずにいった。母親・幸枝さんは、島根県隠岐の島からすぐかけつけた。ちょうどこの頃、近鉄はこの松尾の将来性を高く評価して「大リーグ留学」の計画を押し進めていた。留学といっても、実は相手側から話が持ち出されたものであり、いわゆるトレード。米大リーグ、ホワイトソックスの3Aアイオワへの参加が具体化していた。その夢が九分九厘実現するところで骨折のアクシデントが起きた。練習を再開したのは5月末だった。しかし松尾の中にはこの故障を機に一気にほとばしりができた。野球に対する真剣度が増したという。失礼ながら、松尾の母校・出雲西高はずば抜けて強いわけではなかった。せいぜい山陰大会の島根、鳥取の大会に出場したくらいだ。それでも、スカウトの目はこわい。広島、クラウン、巨人、ヤクルト、そして近鉄からプロの手が伸びた。その年の近鉄の1位指名は東海大二高の超高校級といわれた左腕・中野英明である。同じ左腕。中野の騒がれようはすごい。6位の松尾など見向きもされない。かくて、彼の人生は「まず、同期の中野に勝つこと」から始まる。なにしろ、契約金もケタがちがう。月給も差がある。近鉄には日本一のエース鈴木がいる。次いで神部、村田と他球団もうらやむ「左腕トリオ」がいた。松尾への期待度は、やはり6位は6位だ・・・。が、一年たって、松尾のカーブ、シュートのキレの良さが首脳陣の目にとまる。その時点で、すでに中野を抜いている。西本監督が注目しはじめた矢先の頭がい骨こっ折だった。故障後の松尾は、なぜか血が騒ぐ。欲が出た。53年度はウエスタンで10試合、5勝1敗、防御率2,14.悪くない。そこへ、神部のヤクルトへのトレード。自動的に松尾はナンバー3の左腕として脚光を浴びる。チャンス到来だ。一度もスポットライトを浴びたことのない男の人生が、にわかに騒がしくなってきた。真田投手コーチは「万全の投手陣を形成するのには3枚の左が必要・・・」という。その三枚目にいま、松尾は、やっとはい上がった。

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鈴木弘

2012-05-10 20:52:43 | 日記
1971年
・SFジャイアンツへ単身のり込んでいった198センチの大男鈴木弘選手は野望ついえ、予告なき帰国で、両親をびっくりさせたが、こんどは「アメリカでダメなら日本があるさ」とばかり、ロッテのテストを受けた。4月23日から一週間受ける予定だった。初日には一、二軍の首脳陣が勢ぞろいして見守る中、懸命に汗を流した。この日イースタンの大洋戦後、さっそく約40球のフリーバッティングとファーストミット片手に坂本コーチのノック、そしてベースランニングと投攻走にわたりテストを受けたのだが、首脳陣の見る目はかなり厳しかったようだ。大沢二軍監督は「うーん、むずかしいな。さすがに身体に比例してパワーは抜群なものを持っている。しかし、いかにも鈍足だし、それに全体的にシャープな感じがない。またフリーバッティングではポンポン飛ばしていたが、ゲームで生きたタマとなるとまったく違うから・・・」と語っていたことからも、前途多難は予想されるところ。いずれにしても採用の有無は先のこと。11月に開かれるドラフトを待たなければならない。「うん、そういうことなので今は何もいえないな。それまでは練習生として籍をおくことも可能だが・・・」と大沢監督は続けたが、正式に選手登録されないことには、ファンの前にその長身も披露できないわけである。


1972年
・ロッテの名物男「ジャンボ鈴木」が早くもホームラン王へ名乗りを上げた。東映二連戦「4月18、19日・東京球場」で守田、杉田から2試合連続ホーマー。さらに24日の大洋1回戦で第3号。翌25日の二回戦でも打って早くも4号目。198センチ、96キロの巨体に相応しいジャンボなスタートぶりだ。このペースで打てばリーグ初の20本台も実現するかも知れない。この鈴木、二年前に大東文化大を卒業、その巨体に目をつけられ大リーガーを目指した。しかし、1Aのデケーター、ルーキーリーグのグレート・ホースで2割そこそこの打率しか残せず、昨年ロッテのテスト生として再出発。ドラフト会議の最後尾「196番目」で指名され晴れて日本のプロ選手になった。しかし、本人は快進撃にごきげん。「ことしに勝負を賭けてみるつもり。ホームラン王は絶対に取って見せます」と怪気炎。

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益田昭雄

2012-05-04 15:25:49 | 日記
【巨人4-0南海】外角へ若干落ちた球に南海の4番野村克也捕手は反応した。強引に引っ張った打球は左翼へのライナー。球が落ちた分、バットの芯を外れたことで打球の勢いはなく、柳田利夫左翼手がほぼ定位置でキャッチした。

 後楽園球場での日本シリーズ第6戦、巨人・益田昭雄投手が南海打線を散発5安打無四球に抑え完封勝利。巨人は4勝2敗でシリーズを制覇。前年に続き南海を倒しV2を達成した。

 山口・久賀高から山陽特殊製鋼を経てプロ入り5年目。公式戦81試合登板も完封どころか完投すらなかった益田が日本シリーズ初の先発でプロ入り初の完投完封勝利。しかも日本一を決めたシーズンの締めくくりのゲームでの快挙に、長嶋茂雄三塁手や王貞治一塁手が駆け寄りガッチリ握手。「信じられない。無我夢中で投げただけ。完封したんですか?僕…」と半信半疑の様子。川上哲治監督の胴上げが始まっても、立役者の一人でありながら輪の外でわけもわからず“ワッショイ、ワッショイ”とかけ声をかけている自分が不思議でならなかった。

 登板するはずのない試合だった。前日の第5戦、巨人は先発に中村稔投手を立てたが、試合はもつれて延長戦に。勝てば優勝、負ければ3勝2敗と詰め寄られる。一気に勝負をかけた川上監督は、第5戦先発予定の城之内邦雄投手を9回から投入。しかし、サヨナラ負けを喫した上に城之内は5回3分の1も投げていた。

 第6戦の先発投手がいなくなった。第2戦で乱調だったルーキーの堀内恒夫投手でいくか、強行して城之内の連投か…。移動日なしで大阪から東京へ向かう新幹線の中で川上は思案に暮れた。午後11時すぎに東京・本郷の宿舎に泊まった巨人ナインだったが、川上は風呂も入らず自室にこもって考えた結果、シーズン終盤に4勝をマークした益田に託すことに決めた。川上監督は藤田元司投手コーチに言った。「球威は堀内だが、コントロールでは益田の方がいい。負けられない一戦だ。確実にストライクの取れる投手でいく」。

 当の本人に先発が告げられたのは当日になってから。試合前に外野の芝生の上をダッシュし、体をほぐしていた時だった。「マスッ!お前きょうアタマからな」。藤田コーチの突然の指名にきょとんとする益田だった。

 期待通り、制球力は目を見張るものがあった。高校まで軟式野球しかやっていなかった益田だが、コントロールだけなら誰にも負けない自身があった。全113球中ボール球はわずか35球。ストライクからボールになるカーブやスクリューの絶妙なコントロールでファウルを打たせたり、凡打に仕留めたりと変幻自在。ストレートこそ速くなかったが、コントロールだけは最後まで乱れなかった。

 大役を果たした益田はその4日後にエライことをした。来日中の米大リーグ、ドジャース相手に3安打6奪三振でこれまた完封。初完封から2試合連続というのも記録に値するが、大リーグ相手の完封勝利は、62年11月17日に阪神・村山実投手がデトロイト・タイガース相手に成し遂げて以来、2度目の快挙だった。

 しかし、巨人時代はこの短いピークだけで終わった。翌年期待に応えられず4試合登板0勝に終わると、68年は西鉄に移籍。68年7勝、翌年8勝と気を吐いたが、残念ながら「黒い霧事件」で退団。引退後はタクシーの運転手として福岡で頑張っていた。
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森口哲夫

2012-05-04 14:12:57 | 日記
切れ味よいドロップ 愛くるしいが度胸十分

まだウブ毛の残っているようなまことに愛くるしい、こどもこどもした投手である。大映スターズが今年集めた新人投手のうちで現在一番頭角を現しているのが無名の森口である。昨年福島商高を卒業、福島郵便局で一年間軟式野球チームの一塁手をやっていた。
プロへ行こうという気持はなかったが、道仏監督(元阪急)が大映へ推薦してくれたので、何となく入ってしまったとのこと。
プロの生活は驚きと苦しみと喜びの連発だそうである。驚きはプロの打者は0-3からでもねらって打つし、真直ぐの球は絶対にダメなこと。苦しみは東北からポッと出て来たため、トレーニング不足で、松山のキャンプでの先輩のスピードのある動作について行けず、幾日も困り抜いたこと。喜びは五月十七日の対トンボ戦に初めて勝利投手になったことと五月二十八日の対トンボ戦に七回までトンボ打線を三人ずつ完全に抑えて完全試合か無安打無得点の大記録を樹立出来そうなところまで行ったことだそうである。
二十歳、五尺六寸七分、十六貫、投手としてはややキャシャな体つきである。しかし純粋の上手投げのオーソドックスの投法だ。低目に決まる速球、ドロップに威力がある。試合度胸もあるが、これはうちの試合に観衆が少ないからあがらないのだと否定していた。
とにかく一応順調に育ってはいるが、問題はこれからであろう。それにまず体を作ることが大切だ。いまのような体では長いペナント・レースに耐えられないからである。第二は自分でもいうようにいろいろな球をマスターすることであろう。

将来性はある

藤本監督談 まだまだですね。第一体が出来ていませんよ。それに手首が硬い。これをやわらかくしなければダメだ。しかし投げ方は純粋のオーバースローで理にかなっているし、試合度胸もある。だから体力を作ることと、手首の使い方をよく覚える必要がある。スピードももう一息というところでしょうね。人間も真面目だから、東北人特有のネバリで、あわてずジックリやって行けば、将来性は富んでいる。

技巧に走るな

山内毎日オリオンズ外野手の話

オーバースローのオーソドックスの投げ方をしているのがいいですね。球も速いし、これが低目によくコントロールされている。ドロップの切れ味も良い。それに私が初めて対戦した時、いきなりビーンボールを投げてくるような度胸もあるようだ。体がやや貧弱ではないですか。これから体も出来てくることと思うが、球は速いのだからあくまでスピードで押し、中途半端な技巧に走らぬことが大切だ。よい捕手がつけばもっと威力を発揮する投手だ。
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高野一彦

2012-05-04 14:08:29 | 日記
制球力に格段の進歩

努力家で負けずぎらい・・

関取りという愛称がついている。東映の中ではきわ立って体がでかいからである。
その彼が福岡県行橋中学にいた時は、体が貧弱なためレギュラーの位置をとれなかった
というからおかしなことである。中学時代は二塁手、福岡京都高では二年生のシーズン終わりまで
三塁手。それまで投手の経験はなく、ただ練習のバッティング・ピッチャーをやった程度。
投手になった動機は当時京都高の投手陣はあまりにも弱かったので、彼は見るに見かねて、
補欠でもいいから投手をやらせてくれと監督に頼んでなったという。だからその時まともな投手が
いたら今日の彼はおそらくなかっただろう。初めてプレートを踏んだのは、その年野球部の修学旅行で
宮崎へ行ったとき、相手は九州一、二といわれた桑原投手(現在西鉄)のいた日向学院。試合は惜敗したが
桑原に劣らず好投し三振十二を奪った。これで投手になれる自信をつけたという。
翌年(三年生)の九州大会の福岡県予選で勝って大会に出場したが、彼の投手としての活躍ぶりが
目ざましたかったので、地元の西鉄をはじめ南海、国鉄など八球団から勧誘を受けた。東映入りについて
「最後に国鉄、東映のどちらにしようかまよったが、当時からオヤジさん(岩本監督)の大のファンだったので、
東映の方をとった。誘いを受けるまでプロに入る気は全然なかった」といっている。
ことしで三年目だが、東映に入ったころはやせていて、今日の彼がウソのようにスマートな投手だった。
一年目は練習用投手をおもにやって泣かず飛ばず。二年目の五月二十一日、対西鉄で五回まで投げて
二点を取られたが味方がよく打ったのと土橋の好救援で初めて勝利投手になった。
そのころからしばしば使われだしたが、高野の名が知られるようになったのは終盤戦の九月十五日、
対大毎を一点に押え二勝目をあげた時からだ。その後西鉄に二勝したが、この二勝は東映をAクラス
に導いた原因の一つだった。だが今年の進境ぶりは昨年とはくらべものにならない。昨今では土橋を
しのいで東映のエース格までなっている。
高野の進歩を宮沢コーチは「昨年まではコントロールが悪く、落ちる球やカーブが真ん中へ集まりがち
だったが、それがコーナーに決まるようになった。それと上半身だけで投げていたのが、ことしは腰が
ついて行くようになった」といっている。
おっとりした表情や動作に似ず努力家で負けずぎらいである。
「最近チームの成績が悪いので監督さんが泣いていることがある。それを見ると気の毒でしょうがない。
私は監督さんのためなら腕が折れてもいいと思っている」というところなど実にたのもしい。
二十歳、身長1㍍79、体重82・5㌔

高野投手の話

どうにか投手らしくなれたのは亡くなった筒井さん(コーチ)のおかげです。私のコントロール
と下半身の欠点を直すため、ものすごいほど鍛えてくれた。それと、ことしハワイに遠征したとき
肩を痛めたのもかえって幸いした。そのため伊東のキャンプでは、ボールを一度も握らず毎日ランニングや
山登りをして足、腰を鍛錬することができた。これがよい結果になっている。
このごろは試合に出るのが楽しくてしようがない。

近鉄関根選手の話

去年から見ると格段の進歩をしている。去年までは低目をつくコントロールが悪かったが、
ことしは低目へシュートや落ちる球がとてもよく決まるようになったので、打ちづらくなった。
投手経験が浅いにしては度胸も良く、悪い点は見あたらない。
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有吉洋雅

2012-05-04 13:36:28 | 日記

制球力には自信満々 恵まれた体と特異な指

この春、平和台で西鉄球団のスプリング・キャンプ第一次日程の最終日、山口県下松高校の
学帽をかぶった田舎臭い学生が父親に連れられてノッソリ現れた。この田舎高校生がユニホーム
に着替えて球を投げ出すと、トタンに観衆も球団の古参選手らもびっくり目を見張った。体の
こなしはよく、右腕からの投げおろす重い球は、伸びがありコントロールもいい。
しかもホームプレート近くでカクンと曲ったり落ちたりする球もある。この時から有吉洋雅投手の
存在は球団の中に大きく浮び上った。
昨年の暮から正月にかけて、広島の石本コーチの家で鵜狩、佐川、田中ら新人とともにこっそり
指導を受けていたのだが、性格は温厚、落着きがあり、ものをいわぬので困るといわれるほど
の無口屋である。五尺八寸五分、二十貧、この六月で十九歳になる。幅のある胸板、丸味のある
肩、長い腕などが特徴で、顎から下のバネも柔軟、投手として申分ない素質がある。
しかもお前のその指ならーと石本さんがほれこんで教えたのがフォークボール。彼は人差指と
中指の中節(第二関節)を曲げてその中間に球がすっぽりはまり込むほど指間が開くという
変わった指の持主である。だが有吉の優秀さはこうした指先から生れる曲球よりも、巨体から
繰出すスピードとコントロールのよさにあるらしい。彼自信もウォーミング・アップの球に
伸びがある時は調子がいい日で、いま投げている球はアウドロ、シンカー、シュート、それに
フォークボールだが、直球が一番多く、外角低目を衝くのが一番効果的だというとおり、制球力には
自信満々、有効な球すじも自覚しているから大したものだ。「親父から今までの二敗は二つとも
四の字のつく日だ。四の日の登板は注意しろとつまらんことをいってきましたが、やっぱり四の日は
いやだ。もう一ついやなのはコツンコツンと当ててくる打者」と縁起をかつぐところなど、どうしてなかなか
古参投手以上である。四月三日対大映に一勝して以来六日で四勝二敗、曲球を投げる時、やや腰を
引き過ぎて本来のスピードを欠く弱点もあるようだが、腕試しはこれからだ。

秋までには10勝か

三原監督の話 投手としては異材でしょうな。予想以上の出来栄えをみせます。注意すべきは
滑り出しがよいと、とかく甘く見勝ちなものです。努力を怠りがちとなり進歩が止まってしまう。
有吉はこの点は自ら注意しているようです。プレート上の態度もいいし、これからが楽しみです。
普通新人は五勝がいいところでしょうが、有吉はすでに四勝、この調子ならこの秋までに十勝は
確実でしょう。

新人離れした度胸

飯田選手(南海)の話

あれは第一、新人らしくないですよ。プレート上で度胸があるというのか、相当年功を経た投手
みたいですね。それにコントロールが素晴らしい。制球力がいいからフォークボールも投げられるのだろう。
大体彼は低めに通してくるのだが、それもやや打ちごろますじに入ってくる。それが手元にきてスーッ
と小さく落ちる。実にいい球ですよ。大きく落ちるわけでなく、小さいが、しかし完全にミートをはずされる。
処置なしですよ。球質は重いし、スピードはあるし、とにかくいい投手です。
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ホイタック

2012-05-04 12:53:01 | 日記
2ストライクとらせて 一発を出す近藤和

打者の本領は、2ストライクをとられてから安打できるかできないかに一番よくあらわれるものである。この勝負どころで、よく痛打される投手は大投手になれないのとは逆に、このヤマ場に強い打者は監督からもっとも信頼される。近藤和はそういう勝負派の一人。一回、ホイタックが武器とするナックル・ボールを右翼席へ本塁打したのは2-2後の5球目だった。公式戦初登板、しかも一回、一番バッターにいきなりホームランされたのだから、ホイタックにとって、これほど痛烈なパンチはなかっただろう。「わたしはなにもいいたくない」-こういってロッカーへ消えたが、大リーガーの誇りと自信が、いっぺんに消し飛んだにちがいない。
近藤和は、意識的に2ストライクを投手に与えることがある。ファウル打ちでも有名だ。この日は、5打席のうち三度2-2後に打っている。開幕戦(国鉄)でも、5打席で三度2-2のカウントから打っている。
たしかに、投手としては、2-2から打たれるのも、1-0から打たれるのも「打たれる」ことには変わりがないかもしれない。事実そう口にする投手もいるが、そのときの表情は強がっているようでもある。
リリーフに出て、五回、2-2としながら近藤和に三遊間安打された中日の板東はこういった。「いや、やはりショックですよ。最初のホームランの印象が強いので、わかっていながら内角を攻められないんです」。
「気が弱いので・・・」と本人はいうが、ほんとうは投手に与える真理的な打率を計算に入れている。2ストライクをとってから、得意のきめダマを使う投手が多い。これは、当たり前だが、その一球を近藤和はねらう。ホイタックから奪った本塁打のナックルがそれだ。
ーどうしてだろうか。答えは決まっている決め球は投手の生命。それを痛打すれば、投手を打ちのめす近道となるから・・。「そうじゃないですか。それに、第1球から打つのはもったいない気がする」というわけだ。しぶとい、うるさい、投げづらいバッターとして他球団の党首から敬遠される理由も、このへんにひそんでいるのかもわからない。この日、三原監督は重松が故障のために、一番にだれを起用するかでずいぶん考えたそうである。近藤和のほか近藤昭、黒木がその候補にあがった。結局あとの二人二、七番にすわった。近藤和が打撃のうまさで二人をしのぐことはだれでも知っている。しかし、それ以上にホイタックの出バナをたたきつぶすことに神経を使った。これが三原監督に「一番近藤和」の打順を編成させた最大の理由だといえよう。「ホイタックを調子にのせるのを警戒した」という試合後の三原監督の言葉に、その理由が読み取れはしないだろうか。
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上別府幸一

2012-05-04 11:09:58 | 日記
軟式出の異色投手

十七日に入団発表した金子(今治南高)を入れても西鉄の左投手は井上善とこの上別府の三人だけだ。宮崎県小林市の中学を出るとすぐ地元の会社に就職、軟式野球を楽しんでいたが、三十九年ウエスタン・リーグで西鉄二軍が同地に遠征した時テストを受けて合格、昨年からユニホームを着た異色選手。
「昨年までボールになれるのが精いっぱいでした」と語っているが、プロ野球ではまったく珍しい中学卒。しかも軟式出身というハンディは相当な負担だったに違いない。テストでも「フォームがいい」というのが採用のおもな理由だったが、さる十四日のシート・バッティングでは低めに決まる速球で主力打線にヒットらしいヒットを打たせず、いっぺんにクローズアップされた。
1㍍80と長身に恵まれた体重もことしになって3㌔ふえて73㌔というから近い将来のローテーション入りが有望視されている。本人も「与えられたワン・チャンスをきっと生かします」とファイト満々だ。
◆重松コーチ 「昨年一年で軟式出身には珍しいほど進歩した。スピードが出るといいのだが、オープン戦でためすのを楽しみにしている」
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中原勇

2012-05-01 20:44:20 | 日記
中原勇 好投 一条の光

十年ぶりの優勝を目指す東映の泣き所は投手。とくに左投手に決め手がないことだが、この日、左腕の中原勇が一条の光を投げかけるように先発で好投した。5イニングを投げ打者十八人に2安打。四回中村勝の三塁内野安打は、守備のいい野手なら取れる当たりだったから、実際には五回二死からの後藤の右中間二塁打1本に押えたといってもいい。昨年に比べ直球にスピードが加わったため、シュートとカーブのコンビネーションがうまく生きていた。コンビネーションがよかった証拠に、阪神の藤田平、田淵は二打席ともタイミングを狂わされ、凡フライにうち取られた。中原勇の得意ダマは切れのいいシュート。マック、中村勝、後藤らが、つぎつぎにバットを折ったのは、いずれもこの鋭いシュートだった。
昨年まではストレートの威力がなかったから、シュートが生かされず、過去二年間で5勝しか出来なかったのも「シュートだけにたよる単調なピッチングが原因だった」と反省する。しかも、悪いことに彼の直球はシュートの回転をするそうだ。だから打者からは「シュートだけねらっていたらいい」といわれる始末だった。
そこでことしは、キャンプで直球にみがきをかけることを第一の課題とした。シュートの回転をしないように注意してストレートばかり一日200球近く投げ込んでいた。その成果はあったわけで「内角に食い込むストレートを投げられるようになった。ことしはシュートだけにたよることはないだろう。昨年(2勝3敗)のようなことはない」と自信のある口ぶりだ。
待望の左腕出現といってしまうのは早計かもしれないが、東映の左腕といえば、彼をのぞくと、八年間で2勝の山崎、三十一歳の大羽(広島から移籍)、新人の保坂しかいない。優勝の前に立ちふさがる阪急には、福本、加藤の左打者がいるから、中原勇が成長しなければ多難だが「この調子を忘れずに伸びてこれれば楽しみ」という山根コーチの期待が実れば幸いだ。

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