土曜、日曜と浜松に行っていた。
昨日は、会社の忘年会だった。
朝5時過ぎに起きて行った。
東京駅で会社の人たちと会うのがいやだった。
新幹線の中では、寝ていた。
忘年会は2時半に終わり、
私は逃げるようにして会社の連中と別れた。
でも、サゴーロイヤルホテル(忘年会をやったところ)の
屋上の露天風呂はよかった。
天気は曇り空だったが、
浜名湖を眺めながらの風呂は気分よかった。
それから私はタクシーで、
「浜名湖エデンの園」という老人ホームに向かった。
ASAHIネットのかしの木亭談話室に参加している
84歳の女性を訪ねたのです。
2人でのミニオフです。
そこはかなりの老人ホームで、
お金がないと入れないところです。
個室のその部屋には、マッキントッシュとウィンドウズの
パソコンがあった。
キーボードもあり、パソコンで音楽を楽しんでいる。
高校の教師をしていたその人は、
すばらしい老後を送っていた。
そこにはゲストルームがあり、
私はそこに泊まった。
今日は、その人と観光タクシーで浜名湖を一週した。
天気がよくて、浜名湖がきれいだった。
駅前の「楽器博物館」でタクシーを降り、
私はそこを見学した。
いろいろな楽器があり、楽器好きな私は楽しかった。
老人ホームに泊まり、
自分の老後のことなどを考えた。
しかしその前に、現在の生活だ。
今の暮らしをどうするかだ。
帰りの新幹線から見た富士山がきれいだった。
私は、会社に行くのにいつも、
所沢川越県道を川越方面に行っている。
家を出てすぐに、西武新宿線を越える踏切がある。
たいがいその踏切の前で、車は渋滞している。
ところが今日はすんなりと踏切まで行けた。
でも、私が踏み切りにさしかかろうとしたときに
警報機がなった。
私は行っちゃおうかなと一瞬思ったが、
やっぱりルールは守ろうと思い、
遮断機の前で停車した。
そのときです。
私の目の前で信じられないことが起きた。
踏切の向こう側に並んでいた車の5、6台うしろから
1台の車が右側の車線を走ってきて、
遮断機の前まで来た。
私の車とその車は、踏切を間に置いて向かい合った。
私が、遮断機が上がると同時に、
車を発進させようとしたが、
目の前には車がいる。
仕方ないので、私はすぐには車を動かさなかった。
するとその車が、
すごい出足のよさで、踏切を抜けていった。
何考えているのかな。
あんなことして、気持ちいいのかな。
私はその人のこころの貧しさが哀しかった。
11月8日は、女房と私が出会った日だ。
彼女が21、私が26歳だった。
23年前のことです。
会って2週間目ぐらいに彼女が私のアパートに来てから、
1年間単身赴任のため別居したこともあるが、
ずーっと一緒に暮らしてきた。
こんなにながくつきあったひとは他にはいない。
なにごとにも中途半端な私としてはめずらしいことです。
まさかあのとき、
こんなにながく暮らすことになるとは思わなかった。
今日までを考えると、あっという間という感じですが、
振り返ると気が遠くなるほどいろんなことがあった。
正直、よくここまで夫婦関係を維持できたと思う。
これは、21歳になる息子たちのおかげだろう。
息子たちをなんとか一人前の人間にしたい、
という思いで私たちは暮らしてきた。
互いに自分勝手な私と女房には、
子どもを育てるという共同作業がなければ、
ここまで持たなかったように思う。
息子たちが成人した今、
私たちはそれぞれ別なものを育てている。
女房はなんといってもフラメンコだ。
私は、ショウセツ デス(声が小さい)。
さあ、どっちがはやく、大きく成長させるかな。
先週、私が乗っている車を買ったディーラーから
封書が来た。
中には、メーカーとディーラーからの手紙が入っていた。
「改善対策(不具合無償修理)のお詫びとお知らせ」
という内容だった。
エンジンのクランクシャフトに加工不良があり、
そのまま乗り続けると、
クランクシャフトプーりーボルトが弛んで、
最悪の場合、
ハンドルの操作力が増大するおそれがあるから、
クランクシャフトプーリーボルトを交換したい。
ということだった。
私は、「またかよ」と不愉快になった。
これで4回目だ。
まだ今の車は、乗り始めて4年半ぐらいだ。
これまで2回リコールで部品交換をした。
3年ほど前には、ファンヒーターがおかしくなり、
茨城から帰ってくるとき車内が温かくならなくて、
女房と寒くて震えながら帰ってきたことがあった。
このときは、ファンを交換し、
それでも直らず調べたら、
センサーが不良ということで交換したら直った。
最初の2回目ぐらいまでは、
おとなしく車を持っていってたが、
こうたびたびあると、イヤになる。
私の大切な休日の時間を、
メーカーのミスによって奪われる。
日曜日に車を持っていったとき、
私は、今回のことを説明する整備の人と営業に、
普段の私とは違う感じで抗議をした。
「不良が見つかったから交換する、
ということで終わりにするのはいいが、
そのことで何回も何回も貴重な時間をさかれる
私の身にもなってみろ」
ふたりは恐縮して頭を下げていた。
先週電話をしたときには、代車がないといっていた。
「こんなところで部品交換が終わるまで、
1時間半も待ってなくてはならないなんて」
というと、
「代車があるから乗っていって下さい」という。
だったら、なんでこの前電話をしたときに、
代車があるといわないんだろう。
ないというから、私は待ち時間に読もうと思って、
文庫本を持ってきていた。
客が大きな声を出せば、ないはずの代車が出てくる。
ああ…、いやだいやだ。
1台の車でこんなに不良があるなんて、
メーカーの責任はどうなるのだろう。
もし、事故にでもなっていたら…。
ただ部品を交換すれば
すんでしまうということでいいのか。
私は納得がいかない。
またまた、このところ、うつです。
しょうじき、なにも、するきがしない。
しごとがおわって、いえにかえってきて、
にょうぼうがいなくても、
らくやにもいくきがしない。
こんやは、めしらしいものをくってない。
ひととはなすのも、おっくうです。
こういうときこそ、
ひとり、とじこもってないで、
だれかとはなしていたほうが、
いいのだろうが、
だめです。
夕方、1週間分の煙草を買いに出かけた。
あたりは薄暗く、気分は充分憂鬱だった。
明日からまた、あの単純肉体労働だ。
つくづく自分の暮らしを呪った。
こんな状態になったのは、
社会のせいも少しあるが、
自分が“やることやってこなかったからだ”
ということは分かっている。
信号が青になり、自己嫌悪が渡り始めた。
スクランブル交差点の真ん中あたりで、
胸のケータイから「コンドルは飛んで行く」
のメロディが流れた。
これは、自分で入力した着信音です。
「もしもし…」
「おれだヨ~」
「もしもし…」
「わがっかー(分かるか)。おれだよー
今がら、みんなと飲むんだ。
この前電話したけど、おめェー出なかったんだ」
「いいな。おれも行きたいな。
でも、日曜日の夜じゃ行けないよ」
「また連絡するよ。
ちょっと待って、Sさんにかわるから」
茨城の友人だった。
ブラスバンドでチューバを吹いていたやつだ。
「もしもしー。ワタシヨー」
第3クラリネットを担当していた素敵な女性だった。
「元気そうだね。今どこにいんで(いるの)?」
「水戸だよ。これから下館に行くの」
「何人ぐらい集まんでェ(集まるの)?」
「15人ぐらいかな」
「楽しんでね。気をつけて」
「こんどねー。それじゃ」
高校のときのブラスバンド部の連中が集まるらしい。
みんなの顔(高校生のときの)が、次々に浮かんだ。
胸が熱くなった。
おれには、あいつらもいる。
がんばんなくちゃナ~。
私が初めて人前で芝居をやったのは、
23歳の秋だったと思う。
そのときの劇団は、中野勤演(中野勤労者演劇会議)
というなんか堅苦しい名前の劇団だった。
誰かの紹介で入ったのだが、くわしいことは忘れた。
その年の春か夏の初めに中野勤演に行くようになった。
秋の公演に向けての準備に入ろうとしているときだった。
中野勤演を主宰していた35、6歳のKというひとは、
たしかクリーニング関係の業界紙をやっていた。
演劇に対してかなりの野心家で、将来は、
演劇でメシを食おうと考えていたように記憶している。
劇団員は10人ぐらいだった。
ほとんどが20代で、
ひとりだけKと同年代のMというひとがいた。
Mは長年演劇をやっていて、別な劇団にいたとき、
ヨーロッパ公演をしたというのが自慢だった。
秋の公演では、
テネシー・ウィリアムズの短い劇を3本やることになった。
そのひとつの「最後の金時計」という2人芝居に、
入ったばかりの私が出ることになった。
テネシー・ウィリアムズは、
「欲望という名の電車」「熱いトタン屋根の猫」
を書いたひととは知っていたが、読んだことはなかった。
「最後の金時計」という劇は、年老いた靴のセールスマンが、
これまで自分がどんなに仕事を一所懸命したか、
いろんな苦労話を若いセールスマンにして、
最後に、成績優秀で靴の販売会社からもらった金時計を
うれしそうに見せる、というものだった。
しかし、時代は変わってしまい、
年老いたセールスマンのやりかたは古くなり、
若いセールスマンのほうが、今は成績がよかった。
老セールスマンをMが演じ、
若いセールスマンを私がやることになった。
練習は厳しかった。
私は芝居が初体験なのに、
演出をするKは、本気で私を怒った。
毎回、練習には怒鳴られた。
「茨城訛りのアメリカ人なんかいるかー」
というのが一番きつかった。
私は、日常生活でもイントネーションが茨城風だが、
芝居の稽古で緊張するとよけい酷くなった。
演技のことなら直しようもあるが、
訛りは、すぐには直せなかった。
泣きたい気持ちで練習をしていた。
途中なんどやめようとしたか分からない。
それでも、練習が終わってみんなと居酒屋で飲むと、
もう少しがんばるか、という気分になり、続けた。
公演は、中野のある喫茶店を貸し切り、
そこのイスやテーブルを外に出して劇場にした。
客は床に坐って観るのです。
10時に閉店してからその作業をした。
たいへんだった。
公演は、日曜日の昼と夜の2回やった。
私は、東京にいる何人かにチケットを送った。
本当は売らなければならなかったが、
私はお金は取れなかった。
「売らなければいい芝居はできない」
とKはいっていたが、私にはできなかった。
昼の公演に友人が何人か来てくれた。
私は一所懸命やろうと緊張した。
お客の前で、
セリフをきちんといえるかどうか不安だった。
しかし芝居が始まると、私は思ってたほどではなく、
うまくセリフをいえた。それなりに演技もできた。
ところが、何年も演劇をしてきたMがとちった。
途中のあるところで、
金時計を見せたあとのセリフをいってしまった。
後戻りはできない。
私はとっさにつなぎのセリフをいって、芝居は終わった。
観ていたお客は、それなりに違和感を感じなかったと思う。
しかし、「最後の金時計」という芝居なのに、
金時計が出てこなかった。
40分ほどの芝居が、30分で終わってしまった。
「あそこでつないでくれて助かったよ。
本当にごめん。夜はちゃんとやるよ」
舞台から降りて、Mは私に詫びた。
昼の公演が終わり、喫茶店の外で友人と話した。
みんなは「よかったよ」といってくれたが、
私は不本意だった。
夜の公演は、脚本どうりにできた。
でも、私の友人はだれも来ていなかった。
私はその公演のあと、中野勤演をやめた。
もう忘年会なんてものの話の出る時期になりました。
しかし、今年のわが社の忘年会は、
へんてこなことになりました。
これまで会社の忘年会は、
近くの料理屋の宴会場でやっていた。
でもそこは駅から離れていて、
参加するには車で行くしかない場所だった。
それで、会社まで来る料理屋の送迎バスか、
自分の車で行くことになる。
忘年会ですからアルコールが苦手な人以外は、
酒を飲んで酔っぱらう。
自分の車で来た人はもちろん、
送迎バスで会社まで戻る人も、
それから先自分の車で家に帰る。
全員酒酔い運転です。
(うちの会社は駅から離れていて、
ほとんど車かバイク通勤です)
私はそれはしたくないので、
酒の飲めない同僚に家の近くまで来てもらって、
一緒に行っていた。
今年、わが社と同じような車のウィンドウガラスの
加工をしている会社の社員が、
酒酔い運転で人身事故を起こし、それが問題になった。
それで会社としても
去年のような忘年会をしないことにした。
10月に忘年会のアンケートをとった。
「東京でやる」「伊香保温泉」「浜名湖でウナギを食べる」
「ボーリング大会」「忘年会をやらない」
私は「忘年会をやらない」にした。
ボーリング大会の賛成者が19人で一番だった。
しかしなぜか、「浜名湖でウナギを食べる」になった。
上のものがどうしてもウナギを食べたかったようだ。
参加者は15名だ。全社員の半数も行かない。
私は会社の人たちと酒など飲みたくないが、
浜名湖が見たくなり参加することにした。
しかし、会社のお金を使ってやるっていうのに、
へんな忘年会です。みんなブーブーいっている。
私としては、今年はどこにも行っていないので、
ちょっとした旅にしたいと思っている。
11/10土曜日、東京駅で集合し浜松まで行く。
そして忘年会をやって、午後2時頃現地解散になる。
それからひとりでぶらぶらして、
出来たら一泊して浜松あたりを歩いてみよう、
と思っています。
うちには、既製の大きなカレンダーはない。
プリンターの腹に、
ハガキ大の「図書館カレンダー」
が貼ってあるだけです。
これは図書館の休みが書いてあるもので、
1月から12月まで載っている。
以前の会社にいたときは、
取引会社からいくつものカレンダーをもらった。
その中から、シンプルなものを持ってきて、
台所の壁に吊していた。
現在はどこからももらえない。
年末に2、3お店でいただくが、
好みのものではないので使わない。
といって、大きなカレンダーがないと不便です。
それで、私が毎月、パソコンで作っている。
Excelで作ってA4でプリントしている。
そこには、家族の予定を書いている。
ほとんどが女房のフラメンコ、カンテの練習日だ。
「晩飯のない日」なんてのも書いている。
99年からのカレンダーがある。
これを見ると、ちょっとした家族の記録になっている。
これから11月のカレンダーを作らなくてはならない。
今月は、5日の息子のグリークラブの定演を書こう。
あとは女房の練習日。
正直めんどくさい。
これまで10日過ぎても作ってない月があった。
こんどの休みの日にでも作ろう。
それにしても、今年もあと2ヶ月しかない。
私は何をしてきたのか。