山崎元氏がブログで、ミッキー・ローク主演の映画「レスラー」を枕にして「働くこと」について書いています。
「レスラー」を観て仕事の意義を考えた(評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳」2009年6月29日)
「レスラー」は自分も観ましたが、なかなかいい映画でした。
感想はCinemaScapeに書いてます。
さて、山崎氏のエントリは、玄田有史氏と湯浅誠氏の対談への考察に展開されます。
玄田・湯浅対談に話を戻すと、湯浅氏の「日本社会は働くことが人々のアイデンティティーになり過ぎている」という指摘は正しい。失業の際の喪失感が異様に大きいし、仕事を失うと自分を失ったように思うことが多いというのもその通りだろう。付け加えると、世間も、失業者・無業者に厳しい。こうした社会的な価値観は解毒する必要がある。
働くことは大切なことかも知れないが、本人は好きで働いているのだから殊更に立派なことではないし、働かずに食えるなら、それはそれで大したものであって、他人がとやかく言うべきものではない。
この点については自分も基本的に同意見です。
自分自身は「仕事をせずに暮らしたい」と思ったことはありませんが、働いていない人間を極端に特別扱いする価値観は、社会を過剰に息苦しくさせるように思います。
ところでふと思ったのは、そういった価値観は日本国憲法にも反映されているのではないか、ということ。
「国民の三大義務」とは、納税の義務、教育の義務、そして勤労の義務であると、誰もが習います。
納税の義務はよく分かる。
教育の義務もまあ分かる。
だけどよく考えると勤労の義務というのは実質的には意味はない。
働いてなくても別に罰せられるわけではなし、要は精神論なんではないかと。
で、精神論であるからこそ、「働かざる者食うべからず」的な価値観を広く一般に浸透させるのに一役買っているわけです。
湯浅氏も、おそらく氏を応援しているであろう護憲政党も、この点についてはどう考えているんだろう?