著者が、靖国創建の直接のきっかけとするのが、青山上総介らが文久3(1863)年7月に長州藩政府に提出した「神祇道建白書」であり、その翌年、元治元(1864)年5月25日の楠正成の命日に山口明倫館で斎行された楠公祭であったという。ここで青山らは、吉田松陰、村田清風ら長州志士17名を「招魂」する。著者は楠公祭を「北朝末裔・孝明天皇の否定であり、国家改造の危険な祭事だった。・・・・吉田松陰の遺志を継いだ楠公主義者たちは、北朝体制を根底から否定する国家改造論者になっていった。・・・・国家転覆の神事だったのである」と見る。この楠公祭に扇動されたのが、長州藩家老の福原越後であり、楠公祭直後の7月に、京都御所を武力で襲撃し孝明天皇を長州に拉致せんとする禁門の変を引き起こすのである。著者は何も述べていないが、もし禁門の変が成功していたら、彼らは何をしたであろうか? この過激な国家改造論者たちは、北朝の末裔を退位させ、南朝の末裔を皇位に就けようとしたであろう。
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