それじゃどんな紅白なら観るんだ、と自問しても、あまり明確な答えは出ないんですが、とりあえず、近年「もう無理があるからやめたら?」論も多い“紅=女性歌手”vs.“白=男性歌手”の合戦・応援・勝負付けという構図だけは、逆に石にかじりついても維持したほうがいいと思います。
中身が心もとなかったり、スカスカであったりするときほど、“フォーマット”“形式”にこだわるべきなのはもちろんですが、あれだけの長時間、大人数の出演者・スタッフを束ねる求心力たり得るのは、“合戦”というフィクションしかもう無いと思うからです。
茶番に近い、根拠の希薄なフィクションであっても、一定のルールに則ったフィクションを死守し、純化し、突き詰めれば、必ず何らかの“物語”が生まれる。一部ファンしか知らない楽曲、知らない出演者を山と並べるより、“物語”さえ成立すれば、必ず人は注目し、感興の手がかりを見つけ出します。
ここ数年、出場者発表の日に、初出場組だけを一堂に集めて会見させ抱負を言わせたり、記念撮影させたりしていますね。あれも「歌手にとって紅白出場は“勲章”」というフィクションを維持するための懸命な試みです。もう“歌手”ではなく“アーティスト”と呼ばれるほうがふさわしいたたずまいの彼らも「子供の頃コタツで観ていたあこがれの番組」「デビューからの夢がかなった」「田舎の家族も喜ぶと思う」などとお約束コメントで“フィクション”を支えるのに貢献してくれています。
本放送の大晦日3日前ぐらいからの“今年の紅白ここがみどころ”、年が明けてからの“紅白の舞台裏密着”などの民放ばりの番宣も「大勢のスタッフが生放送にかける一発勝負の緊張感」という必死の物語作り。
紅白の人気低落はこの先も避けられないでしょうが、製作者が本気で建て直しを考えるなら、こうした大小の“フィクション”をもう一度見直し、撤廃は考えず、むしろ積極的に補強することから始めるしかないのではないでしょうか。