goo blog サービス終了のお知らせ 

イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

あ、え、あ?

2009-03-09 17:29:48 | 特撮・ヒーロー

『侍戦隊シンケンジャー』のメイン脚本を今年つとめる小林靖子さんは、特撮ドラマ、アニメ界ではファンが多く評価も高い脚本家さんのひとりです。2000年の『未来戦隊タイムレンジャー』、0304年の実写版『美少女戦士セーラームーン』あたりは、ファンと言うより“信者”と言ったほうがいいくらいの熱心な愛好者が、月河の周囲の、おもに大きなお友達にかなり存在します。

『シンケンジャー』は小林さんが久しぶりにメイン参戦するスーパー戦隊ということで放送前から期待が盛り上がっていました。もちろん月河も期待を寄せている大きなお友達のひとりです。06年の『轟轟戦隊ボウケンジャー』でも全49話のうち10話ほどが小林さん脚本でしたが、あくまでチームのサブライターの一人としての参加だったので、小林節(ぶし)全開とはいかなかったですからね。

まぁそれでも信者というほどの熱心なファンではないし、さほどたくさんのタイトルを完視聴しているわけでもないのでおこがましいのですが、小林さんの書くホン・キャラの魅力、無理矢理ひと言で言うなら“痩せ我慢的美意識と義侠心”にあるように思います。

家族や、愛する恋人のためならどんな凡人匹夫でも自分の一命を賭して守りたいと思うはず。しかし、見ず知らずのあかの他人、客観的に守る価値があるのかと疑うような卑しい人間、時には犯罪者や憎い敵のためにでも、進んで己を危険にさらし戦わなければならないのが物語のヒーローであり、そういうヒーローを描くのが特撮の世界です。

小林さんの脚本は、そうした、ヒーローが背負った“割りの合わなさ”“具体性のないもの(倫理、美意識など)への義理立て”、もっと言えば“痛いカッコよさ”を、人物や、お話全体の魅力に変換するのが実にうまい。

今作『シンケン』も殿=丈瑠(松坂桃李さん)のクールでストイックな佇まいに時おり垣間見せる不器用な感情表出や、千明(鈴木勝吾さん)の、義理堅いくせに規則や権威には反骨的で、ラクして楽しいことが大好きなのに自分に厳しく負けず嫌いというアンビヴァレンツなキャラクターに、早くも小林さんの筆になるヒーローものらしさが開花してきています。

ドラマやお芝居の脚本であれ、小説や漫画であれ、フィクション作品創作を生業とする人には、基本的に性差はないと月河は思っています。日本には“女流”という言葉があり、“女性にしか書けない言葉”“女性ならでは描けない世界”なるものを異様に珍重し称揚する一部の男性評論家や男性中心媒体もいまだに存在しますが、それは男性が幻想妄想好きだからです。

虚構を書くとき、人間はつねに同時に男であり、女でもある。大人でもあるし、子供でもある。

取材の段階で、男では入りにくく情報収集しにくい分野があり、その逆もあることは事実だし、世に発表する段階で、著者が男名前では商業的にむずかしい種類の作品もあることは確かです。しかし“女(or男)であること”単体理由で「だからこそ書けた」なんてフィクション作品はこの世に存在しません。『源氏物語』が一千年を経ても高校で習う古典たり得、諸外国にも最古の長編小説としてリスペクトされているのは作者が女性だったからではなく、時空を超える級の才能があったからです。

8日放送の第四幕、シンケンジャーになるため家族や過去を捨てて参集したものの、ここへ来て歌舞伎役者時代が懐かしくなりホームシック気味の流ノ介(相葉弘樹さん)に茉子(高梨臨さん)が「自分がヘコんでるとき逆の行動(=人の悩みを聞き出し世話を焼きたがる)に出るヤツ、居るよねぇ」と看破し、「自分が情けない!思い切り殴ってくれ!」と迫られて「そういう弱ってるヤツ、ダメなのよ…んもう、馬鹿ぁ!助けたくなっちゃうじゃなぁい!」と抱きしめてしまうラブコメチックな場面は、月河としては、“女性脚本家だから”ああなったのではなく、小林靖子さんという優秀な脚本家の、内なる女性の部分が“このときたまたま”表出したから生まれたのだと解釈しています。特に“自分が凹むと人の悩みコンシャスになる”という部分は、TVの前の小さなお友達はキョトーンで、むしろ朝ご飯の支度の傍ら背中で聞いているママさんたちがいちばん「あるある」気分だったのではないかな。

月河はここより、野球少年宅に徹夜で張り込んだ2人が、明け方明らかに茉子持参なピンクの毛布にくるまって、プチ家出のバカップルみたいになってるところがいたく気に入りました。“いかにもラブコメ”“いかにもジュニア小説ワールド”を余裕かまして記号化できる、こちらのほうが小林さんの本領に近い。「(シンケンジャーになるため)夢を捨てたって言っても、あきらめたわけじゃないから」「夢は捨てても、あとでまた拾う」との茉子の台詞もさることながら、大オチ間際のタイミングで流ノ介に「大切なものを捨てるのは、私たちだけで十分だ」と茉子デレ~なお笑いノリで言わせてしまう辺りが、月河が小林脚本を愛する所以です。この台詞をオチ前に使って、笑いにつなげるって、ヒーローもの作家として凡庸な書き手にはまずできませんよ。シリアスで重い、痛いことほど、軽く、ふざけて表現するほうが胸に迫る。もちろん流ノ介を演じる相葉さんの、稀有な表現力あってこそ成立したのですけれど。

このブログで再三書いているように、月河はドラマや映画を見ていて「この俳優さん、いい」「見どころがある」と思うと、速攻「昼ドラか特撮に出てくれないだろうか」と思ってしまう悪いクセがあるのですが、もう何年も前から、小林靖子さんが昼ドラ脚本を書いてくれないだろうかと考えているのです。

男女の恋愛関係のもつれや、血縁因縁にまつわるドロドロ劇は小林さん、まったく興味がないでしょうが、昼ドラの固定ファン、固定ウォッチャーの中に、たとえば06年の『美しい罠』のような、“痩せ我慢萌え”志向は確実に存在する。枠として話数も十分あるし、ゴールデンの実写ドラマほど、こう言ってはなんですが数字のハードルがアホみたくは高くありません。

小林さんの資質が活きる企画、いつか誰か立ててくれないものでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドーシタもコーシタも

2009-03-08 20:22:21 | お笑い

『爆笑オンエアバトル』11回チャンピオン大会セミファイナルAブロック(35日放送)、今年は愛知県尾張旭市での収録。特にどの場面の何がというわけではありませんが、地方収録にありがちな偏りとか、ネタ見せ中の、流れから浮いた客席の奇声などが耳につかず、点数もバランスの取れた回だったと思います。

見終わった瞬間こりゃファイナル進出無理だわと思ったのは上々軍団ブロードキャストパップコーンU字工事。それぞれ良いところもあったけれど、後半から締めに向かって右肩下がりになった。セミは足切りテストなのでこうなると不利。

上々622kb8位)は、ツカみの泉谷しげると正岡子規でとてもいい温ったまり具合になり、サザエさんの歌ぐらいまでは流れが良かったのに、いつものことながらなぜ岡見が幼児キャラのおどけ歌を歌って台無しにするのか。歌自体そんなにうまくないし、締めに鈴木も歌ってノリツッコミという形もここ2回ほどこだわっているようだけどさっぱりおもしろくない。ラジオDJに入るまでは結構おもしろいと思って見ていたことが踏み躙られたような気さえする。

ブロキャス658kb7位)もいつものことながら、前半の「硬派だった」まではそれなりにいいんだけど、後半の三本の矢→信長とサルになるとどんどん雑になっていく。後で触れますが、テンポが助走ペースのときより、たたみかけていくときのほうがおもしろくならないと、長時間(5分)勝負のオンバトでは絶対首位争いできません。

U618kb9位)はここ最近、茨城いじりと「ごめんねごめんねー」にこだわり出してからめっきりつまらなくなった。声が出ていることは昔は強みだったのに、いまは不快なリキみに聞こえる。尾張旭というロケーションのわりには茨城ネタへの客席反応は良かったように思いますが、“おもしろい”という意味の反応ではなかったことがこの玉数でわかる。

パップコーン(534kb10位)は2人×3人にした時点でアウト。3人が“記号としての寒い漫才”を演じている間、犯人と刑事の2人が死に筋になってしまう構成がダメすぎるし、バスロマンズのロン毛が犯人のメガネを「漫談の人」と呼ぶようになる理由もよくわからないなど、作りも緻密さを欠く。“ネタ合わせ中の若手芸人と、リアルガチ犯人&刑事”のギャップが可笑しさにつながっていない。犯人がトレンチコートの刑事に「この海の見える崖の上…」と言ったときには、2時間サスペンスのお約束を使ったコントかと思って期待したんですが。原点に戻るけれど“5人いる”ことを活かしたネタを考えた上で、グダらない演技力を個々につけるべき。

当落線上微妙かなと思ったのがななめ45°東京03ギャロップアームストロング

アーム770kb4位通過)はその中でも確信犯「オレらこんなんしかできませんが何か?」という開き直りすら感じてそれなりに笑えました。変態交番が警察官だったので、今度は思いっきり反転して犯人ネタ。「噛んで電話切る」「言えてハイタッチしてやっぱり切る」のお約束みたいになって、わかってるんだけどやっぱり笑ってしまうんだなあ。この事件勃発であの変態交番に“キモい”部長から電話かかって、取ったり切ったりしてるんじゃないかと思ったら二度笑える。184(イヤよ)」をしつこく通底させたわりには、オチのストン感がいまひとつでした。

ななめ730kb5位通過)はいつもの車掌ネタなんだけど、尾張旭のご当地モチーフを採り入れてうまいことくすぐった。「のぞみがある」で客席がドッと沸いたときには手応えを感じたのではないでしょうか。ここで受けなかったら「当たり前→旭前→尾張旭」も使えなかった。鉄ネタを看板にしている組が、地元の私鉄駅名をネタに入れ込んでくれたら、やっぱり客としては嬉しいですもんね。ちょっとズルいけど、チャンピオン大会ラウンドを地方で録る以上、それもアリとしなければならないでしょう。

東京03710kb6位)は角田が途中から微妙になる、得意のパターンでしたが爆発力がもうひとつ。豊本のフレンドパークで、福引当選の角田が影薄くなっていく過程で、あっさり負けを認めずもうひとつ巻き返しのくだりを入れたかった。ラスト角田が退場せず、ステージに3人揃って大オチにもっていく形を考えるべきだったし、豊本“明長(アキナが)”というファーストネームも、意外にいまのオンバトの地方客には浸透していなかったか。

ギャロップ822kb3位通過)は唯一のオーソドックス上方漫才で、手堅い中にもおとぼけな持ち味を活かしていましたが、それこそ中学生のお弁当のように“小っさくまとまり過ぎ”で突き抜けない。ネタ後のMC小松アナとのトークでツッコミ毛利がNON STYLE井上を仲のいい“後輩”と言及、なにげなーく「後輩が先にオンバトチャンピオンになったので負けてられへん」気持ちをアピールしていましたが、狙うならもうちょっとパンチ力が必要か。個人的には枕の、“こんなアタマ”林「そんなことよりそんなことよりね、これだけたくさんのお客さんに集まっていただいてね、これ見んと本当お客さんもっとほら…ねえ…へぇー…」毛利「へへ…」林「…みんな生え過ぎちゃう?」毛利「オマエが抜け過ぎなんや」というまったりしたテンポ、大好きなんですが、こういうノリ一本でチャンピオンになった組はまだいません。どこかで全速走って見せないと。

 さて、五十音順のステージ入場でも目立って客席の声援が多かった2組、ネタもこの両者の首位争いだろうなと思ったら、その通りタイムマシーン31,012kb2位通過、パンクブーブー1,018kb1位通過ときれいに双璧を成しました。2組に共通するのは、とにかく後半からオチまでのトップギアたたみかけが堂に入っていて、安心して見ていられる。“引っ越し先物件探し”“クレーム”と一本押しのネタでも、起伏がありボケ密度も高いので飽きさせない。ネタ後トークでカムアウトしていたタイムのツッコミ山本が「(関に)“バカ”とツッコむべきところで緊張のあまり“デブ”と言ってしまった」ミスも、ネタの浅めな時点だったことと、直後の「営み業(ごう)」の強烈さでうまいこと流せた。とにかくオンバトは制限時間が長いので、一つや二つのミス、噛みは仕方がないにしても、どこでそれを“やってしまう”か、リカバリーのうまさも首位争いの条件になる。とにかく“オンバト慣れ”で2組が一馬身突き放した感です。今回はノーミスな分、玉3個ほどパンクが上回りましたが、ファイナル本番ではどうなるか。

次週12日放送のBブロックに回った中では流れ星と、ガチコントのトップリードラバーガール、それからただ一組ピンの井上マーがどれだけ掻き回してくれるかも注目しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌は世に攣れ

2009-03-07 16:19:03 | テレビ番組

高齢家族の高齢友人より、NHK総合ローカル放送の公開歌謡バラエティ番組に観覧者当選して、何回かTVカメラに映った「ような気がする」から見てね、と先月お触れがあったので、一応6日(金)の当該時間に録画セットして高齢組に見せました。

しかし、自分もNHKの公開収録番組は『爆笑オンエアバトル』を始めBSマンガ夜話』『週刊ブックレビュー』などいくつか応募当選して参加しましたが、当該番組に全然関心のない、視聴したこともなければ番組の存在すら知らない知人にまで「『○○』の客席に映ってるかもしれないから何日何時に何チャンネル観て」となかば強要する人の気持ちだけは本当にわかりません。TVに映るのがそんなに晴れがましく誇らしいものなのかしら。

のど自慢なりお店お仕事ルポなり、自分で何かをご披露して、どこそこの何野誰子さんですと紹介付きで撮られるんなら、ひとりでも多く観てもらいたいと思って当然ですが、いち無名の、薄暗い客席のひとコマに過ぎないその他大勢として映るんですぜ。「これくらい素朴な一般ピープルがこんな人数集まって、こんなに楽しそうにリアクションしてくれましたよ」という番宣・局宣好感度アピールのための置き道具扱いでもある。アホヅラで大口開けて金歯見せて笑ってるとこ抜かれでもしたらどうするんだろう。恥を知った大人なら「知人に視聴されませんように」と願うほうが自然だと思うのですがどんなもんでしょう。ああいう公開収録って、これでもかと照明され作り込まれたステージと次元を隔てた“無名性の闇”に埋もれるところが心地良いんですよ。

まぁ、『オンバト』は審査して玉入れたり入れなかったりする、“無名性を利した”楽しみもあるので若干異質でしたかね。

そんなことはちょっとコッチに(ドッチだ)おいときまして、高齢家族に付き合って再生視聴した『とことん!ふるさとステージ』、ゲストがキム・ヨンジャさんとジェロでした。月河はこのジェロさんという人を見るたびに、1970年代前半に活躍したスター競走馬にちなんで“演歌の怪物ハイセイコー”とのキャッチコピーで売りされた高校生演歌歌手・藤正樹さんを思い出します。

共通項はヴィジュアルと楽曲(曲調、声質、唱法込みで)の、狙ったミスマッチ

“狙い方”の角度も非常に近似しているように思います。藤正樹さんはスポーツ刈りに学ラン(正確には学ラン風の詰め襟スーツ)姿で、ムード歌謡風女心演歌を、美川憲一さん似の甘く隠微な美声で歌っていました。

『忍ぶ雨』の藤さんにしても『海雪』のジェロさんにしても、あの衣装あのヘアメイクで歌うべき必然性は、楽曲の中には鐚一文見つけだすことはできません。代わりに全面に溢れているのは“らしくなさ”のアピールです。“らしからぬ”のアピールと言ったほうがいいか。高校生らしからぬ、外国人らしからぬ、黒人らしからぬ、あるいは“演歌歌手らしからぬ”。

もう演歌って、なんらかの形で“らしからぬ”が付かないと人気しない、というより世の中でメジャーに受け容れられなくなりつつあるのでしょう。氷川きよしさんがブレイクしてからというもの、明るめカラーリングのツンツン前髪ありヘアに若手ホスト風の、“アイドルとの一線が明確でない”衣装が若手男性演歌歌手の規範になっていますが、氷川さんがすでに、演歌歌手、特に男性歌手と言えば“ダサい”“ミズっぽい”“ヤクザっぽい”という前提に対するアンチ、新風だったからこそ成功したのです。

と言うより、“いかにも演歌らしさ”なんてすでにどこにも存在しないのかもしれない。ファッションであれ容貌であれ出自、国籍、学歴経歴等々であれ「こんな人が演歌歌うなんて、らしくないよね」と、皆に言われるような人が歌わないとヒットしないことは確かだけれども、訣別、払拭すべき“らしさ”の正体は明確でない。なんだか空気と相撲取ってるような、敵対妄想のような状況です。

ジェロさんにしても、『ふるさとステージ』でダンス自慢のチビっ子(←これほど演歌ゲストのローカル番組に似つかわしい言葉もありませんな)コンビと半笑いで渋々からんでいるところなんか見ていると、横向きにかぶったキャップ、ダボTレイヤード、ローライズ幅広パンツにスニーカーというヒップホップスタイルが彼自身そんなに得意、ホームグラウンドじゃないんじゃないかと思えてくる。

“演歌歌手らしからぬ”を演出したいばっかりに、“いまどきのアフリカン・アメリカンの若者らしさ”という記号を纏わされているだけなんじゃないでしょうか。若者っつったって今年でもう28歳なわけで、露出のないプライベートではタイガー・ウッズみたいなポロにゴルフスラックスの、休日のホワイトカラーサラリーマン風で、「これがいちばんくつろげる」と思っているかも。

しかし、ジェロさんに、かりに「『海雪』のような曲を歌う歌手“らしく”見せるためには、こういうものを着てこういう髪型にしなければダメだよ」と指導するとしたら、その目標、規範はどこにもない。規範がないのに、規範から外れた“らしからぬ”を表現しアピールしなければならない。よってジェロさんは本当の黒人若者でありながら“黒人若者のコスプレ”をして『海雪』を歌うことになってしまったのです。

文句なしの美声、歌唱力でありながら、ジェロさんの歌にどうしても無心に聴き惚れることまでできないのは、そういう作為性の引っ攣れのせいだと思います。

引き合いに出した藤正樹さんは、確か静岡県だったか、当然のことながら地方出身で、オーディション番組からデビューが決まって、多くの高校生芸能人同様、芸能科のある堀越高校に転校、同校の制服がブレザーだったため「本当は詰め襟の学生服が好きなので、衣装で詰め襟が着られて嬉しい」とどこかのインタヴューでの答えを読んだ記憶があります。読んだ後しばらく経ってからTVで偶然歌う藤さんを見かけ、「こんな薄らムラサキの(←芸名にちなんで“藤”色にしたとの説も)ヘンテコリンな服着て嬉しいわけないじゃん」と思ったものですが、“らしくなさ”に殉じた者、殉じることを強いられた者の悲哀と痛々しさが、30数年後のジェロさんにもある。演歌限定の話ではなく、げに流行り歌とは哀しいものです。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩ル・ヴ・プレ

2009-03-05 16:02:16 | 夜ドラマ

事件解決しても一抹二抹の苦さが、人物たちにも観る側にも残るのが個性であり魅力の『相棒』ですが、4日放送のseason 7“天才たちの最期”は後味どうこうより、お話がやや陰惨に過ぎましたかね。

若き天才女流詩人の、聴衆の面前での抗議の自殺、彼女から触発を受け世に出たやはり若い天才美形詩人も7年後に同じ状況で自殺。天才女流の草稿ノートからの盗作に、彼らからすれば親世代・祖父世代で師匠格の詩壇大御所2人が手を染めていたのみならず、天才美形の詩集を手がける出版社社長が「どうせ自殺するなら、きみの尊敬する女流の名誉を回復する死に方をしたらどうか」と示唆していたという、いやはや日本の“詩壇”なるもの、というか詩を商品・商売にする人々の世界はどんだけろくでもないんだよという話。

草稿を盗まれた被害者なのに、相手が大御所なばかりに逆に疑われ自殺した天才女流・朋美(清水美那さん)、若年性アルツハイマー症と診断され、詩が書けなくなる恐怖と苦悩に耐え切れず自殺を考え、出版社社長の教唆で「僕が詩の世界を変えて見せる」と白紙の原稿で、大御所2人の前で勧進帳を敢行、2人に毒殺の容疑がかかるよう偽装した上で、盗作された女流の作を絶誦して服毒と、目いっぱいの大芝居で息絶えた天才美形・安原(三浦涼介さん)、ともに周囲にゲタはかされたわけではなく、詩才も、詩に取り組む姿勢も本物だったのがせめてもの救いか。“言葉の表現力”の優秀さを謳われた若者たちが、自分を虐げる不条理への闘いに言葉を使うことなく、“永遠に沈黙する”ことでしか怒りや悲しみを伝えられなかったことが悲しい。言葉というものは何と無力なことでしょう。

大御所2人=大学教授城戸(中島久之さん)にしても、重鎮五十嵐(西沢利明さん)にしても、若い頃は本当に汲めども尽きぬ才能があり、名作が溢れるように生まれたのでしょう。画家ならば新鮮な作品を描くネタがなくなれば外国へ行って“生まれてこのかた見たことがなかったもの”を描くことでかなり時間稼ぎができるし、作曲家なら新人の演奏家・歌手との出会いで、同じような曲想しか作れなくても新鮮に聴かせることはある程度可能です。音楽の場合、過去の作品が利益を生んでくれる、リバイバル・コンピレーションリリースや印税という仕組みもあり、事実上新曲が作れなくても、ほぼ終生第一線に踏み止まることができる。

しかし日本人の詩人が日本語で、日本人相手に詩を書き続けようとする限り、過去作と似かよっていればすぐ露顕してしまう(同じ“言葉”でも、長編の小説等ならゴマカシの余地がたっぷりあり、極端な話、登場人物の名前と職業、舞台となる時代と国籍を変えるだけで「おぉ新作だ」と錯覚させることも。そうして世に出回っている作品や作家は実際多い)。常に真新しいもの、オリジナルなものを中年老年になっても生み出し続けるのは至難の業、というより、それができるということのほうが天変地異もしくは呪いでしょう。大御所、重鎮と世間で称される人数分だけ天変地異がもれなく降臨しているはずがない。

助手だった城戸に助教授の椅子を餌に「朗読会用の作品を明後日までに」と代作を強要した五十嵐も、思い余って新進の朋美のノートに手を出し、朋美の死後も隠し持って自分の作品として小出しに発表し続けていた城戸も、その時点ではすでに詩人として死んでいたのです。「書けなくなったら死ぬべき」との覚悟がなかったことだけが若手2人との違い。”が日本語で“命が絶えること”を示す言葉と同じ発音を持つのは偶然ではないのです。

三浦涼介さんの顔を見ると、いまだに一昨年の『美味(デリシャス)學院』のマシューが記憶に新しく、一人称を「ミーは…」と言い出さないかとヒヤヒヤしてしまうのですが、シリアスな芝居がどうかという不安はまったくなく、天上的な容姿が役柄に似合っていましたね。朗読会場の青白い照明の中で喉をかきむしり倒れる場面は、本当に天使の末期(まつご)のようだった。

他方、初めて担当を任された安原の処女詩集出版に打ち込む新人編集者・瑛子役黒川芽以さんは、一昨年の昼ドラ『愛の迷宮』の頃よりもさらに肉付きが良くなったようですが、穏やかな場面でも息づかい音の顕著な喋り方といい、天使をどうにか消えさせまい、繋ぎ止めようと奮闘する“地上性代表”のような土俗的な熱気が感じられて、こちらも悪くなかった。大卒23年めなら、まだ在学中の安原とは同世代。警視庁に乗り込んで「自殺じゃありません、もう一度調べて」「ワタシは出版社の人間だから警察は杜撰だって書きますよ」と直談判する破れかぶれの度胸とウザいくらいの図太さ、自殺した2人の、潔すぎるか弱さと好対照に見えれば成功。

ただ冒頭にも書いた通り、結末は沈痛なものです。朋美からの盗作の真相が明るみに出た城戸は大学を辞め詩壇からも引退、五十嵐は内定していた文化勲章が見送られ、重鎮としての最晩年を汚名にまみれる結果になりはしましたが、所詮自殺した2人の命は還ってこない。屈辱に耐えかねての朋美の場合は「若いのだから生きてペンで闘い続ける道もあったのに」「詩人といえども商業出版界で生き残るには精神が繊弱過ぎた」とエクスキューズのつけようもありますが、若年性アルツハイマー症を苦にした安原の自殺だけは、もっと積極的なフォローがあってもよかった気がしますね。

かねてから、贖罪や逃避目的の自殺に同情しない立場を取る右京さん(水谷豊さん)は自殺幇助の出版社社長(三上市朗さん)に「彼がみずから命を絶った事を肯定するつもりはありませんが」と言っていましたが、きっぱり否定を、誰かにしてほしかった。“書けなくなる病気では世を儚んでも仕方がない”という地合いが続いたまま終わってしまったのです。真相判明後の後味悪さより陰惨の印象が強いのはこのせいでしょう。

たまたま先日当地で映画『博士の愛した数式』が放送された直後だったので、室内一面に貼られた無数のメモ用紙、同じ歯ブラシや消耗文具が大量に買いためられた引き出しの場面で、安原がなんらかの脳障害をわずらっていることは推測できました。あたら文才に恵まれただけに、知性や創作能力が鈍麻していく病気の恐怖と苦痛は筆舌に尽くしがたいものがあったでしょうが、アルツハイマー症、医療で根治までは難しくても、進行を遅らせる治療法は徐々に確立されてきているし、進行しつつもそれを受け入れ、残された日々を有意義に全うせんと努力している患者さんやご家族も大勢いる日本なわけです。「病気と闘って1日でも長く書き続けてほしかった、書けなくても、生きる手助けをしてあげたかった」と瑛子にでも言わせてくれたら、全篇の救われ感、せめてもの癒し感がだいぶ違ったと思います。

特命ルームで瑛子が安原のプロフィールを右京さんに説明するとき、「アイドル並みの容姿」という突き放した表現をあえてしていた辺り、“封印した恋愛感情”の暗示だったかもしれない。…

(ちょっと脱線しますが、児童施設から少年安原が出したファンレターに、脚光を浴びていた頃の楚々たる女子大生詩人・朋美は何通も励ましの手紙を送っているし、白皙の文学青年の面影をとどめる五十嵐は詩作を始めた安原を自邸の一室に住まわせて親代わりサポートしていました。明示はされませんが安原は両性に熱愛されている。“ランボーの再来”と劇中キャッチを冠せられる所以。そして彼自身の最も恋愛感情に近いベクトルは、実はがっしり体躯不精ヒゲの出版社長堀江に向けられていたと思しい)

…あるいは盗作を認めたときの城戸が「バカですよ、自殺なんて」「この宇宙を映し出すような、人の心を打つ詩の一篇も自分では書けないまま、世間を偽って卑怯に醜悪に年老いて行かなければならない人間がいるのに、才能ある若者が、なぜ書かずに死ぬんだ」「バカですよ、書けるのに死ぬなんて…書かないなんて、私よりずっとバカだ…そう思いませんか、思うでしょう」と絶句してもいい。

冒頭、瑛子に受付で食らいつかれ中、通りかかった右京さんを渡りに船とばかり「これはケイブドノ~♪」と満面の笑顔の伊丹(川原和久さん)はお約束だけど、先週の“髪を切られた女”で特命ルームに忍び込み依頼にまできていたはずの芹沢くん(山中崇史さん)も伊丹先輩と同席だと「ちょりーす(逃腰)」って冷たい冷たい。『相棒』の時間軸は前後するのか、相変わらずよくわかりませんな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笑は笑顔

2009-03-04 17:05:22 | 特撮・ヒーロー

ヒーローの造形と言えば、今期は何と言っても『侍戦隊シンケンジャー』でしょう。いやー、年明け、公式プレサイトで初めて見たときは、「こっ、こんな、へのへのもへじみたいなヤツをどうやって“カッコいい”と思えというんだ」と一瞬脱力。次の瞬間、失笑でも冷笑でもなく、純粋にただ笑ったものです。

だって顔面“”ですよ。両サイドのチョンチョンが目で、タテに一本真っ直ぐな部分が鼻筋で、フタマタに分かれてるのがクチと思って見れ、ってことでしょ?

”は上の横棒が眉で、下の横棒は一本で二つの目。で、フタマタがやっぱりクチ。“”“”なんかは真ん中タテ一本がアゴまで届いてますから、その両サイドのフタマタは名探偵エルキュール・ポワロかサルバドール・ダリ画伯ばりのヒゲに見えるんですよ。で、“”だけなぜかクチが横一文字。

こういう造形が企画として通った背景には、携帯コミュニケーションにおける顔文字の普及、百花繚乱があると思って間違いない。無機的な記号や符号を並べて、人間の顔及び顔面での意思感情表出に見立てるということに、若い諸君を中心に抵抗がなくなっています。

まぁ、気を取り直してよく見直すと、黒い文字を白で縁取ったり、画ごとの太さを変え角度を工夫するなどして、“”が眼光鋭い若侍の顔に、“”が凛々しいボーイッシュガールの顔に、“”がけなげな頑張り娘の顔、“”がキュッとクチ結んだ一本気できかん気の少年の顔、“”が乙に澄ました“俺おシャレ”野郎の顔に見えなくもないよう、デザイン担当さんがかなり涙ぐましい試行錯誤、知恵を絞ったあとがある。

そうこうするうちに先輩『炎神戦隊ゴーオンジャー』の本編後に予告が流れるようになり、♪チャンバラ チャンチャンバラ のテーマをバックに動いてちゃっちゃと斬りむすんでいるのを見ると、「アレ?全然ギャグ戦隊っぽくないし」「笑い抜きで観られるかも」と思うようになってきたんですね。

12幕は、おもに“水”の流ノ介(相葉弘樹さん)の頑張りと言うかナイス空回りで「おもしろいしかわいいし、結構カッコいいわ」にガツンと振れ、3幕で“木”の千明(鈴木勝吾さん)と、変身後走り跳びまくったスーツアクターさんのおかげで、ほぼ「これだけカッコよければ、顔が少々アレでも気にならない」に漕ぎつけたのみならず、アヤカシ・ロクロネリの腕攻撃をアンティシペートするため“火”マスクの下で目を閉じる丈瑠(松坂桃李さん)の場面に至って、「おぉこの仮面、いい!強そう!」と180°感じ方が変わってしまいました。

プレサイトのスチール一枚→アクション→台詞と人間性→劇中演出と、ドラマとしての描写が一枚また一枚と重なるにつれ、静止画ではどうかと思われた造形でも魅力が増して行く。なんだか製作側の意図にまるごとホイホイ乗せられている気がしないでもありませんが、ドラマや小説味読の醍醐味は、心地よく“乗せられる”“騙される”ことでもありますからね。

但し、ドラマ本編のほうは、3話終了時点で各メンバーの持ち武器と持ちワザ、協働での連続ワザ(=螺旋の舞)などを紹介しましたが、“文字”“言葉”の力を戦闘パワーに変えるという基本設定の本格的な展開にはいまだ至っていません。ここがどんな解釈、バリエを見せるかにいちばん期待しているのですがね。いままでいちばん痛快だった場面は、1話で丈瑠が“馬”と書いて馬が出てきたところでしたね。

その代わり2幕でことは(森田涼花さん)、3幕で千明に焦点をあてて、“シンケンジャーであることの意味、本分”“キャラによるその理解度の深浅”など、おもにメンバーごとの性格の違いや、そこから生じる人間関係を描出するほうに力が入れられていましたね。お話のおもしろさに“嵌まって”、十二分に堪能してもらうためには、やはり主要人物に興味を持って、好きになってもらうのがいちばんの王道ですから、ここまでのやり方は間違っていないと思います。

ただ、比べてはいけないけれども、前作『ゴーオンジャー』よりは、“好きになるために理由が必要”な描写法をとっているなという気はする。ゴーオンメンバーは、3話までは走輔(古原靖久さん)たちスカウトされた3人と、押しかけ自薦で加わった軍平(海老澤健次さん)範人(碓井将大さん)との間に、意識上の距離感や摩擦はあったけれど、“動いてしゃべっているのを見ていれば自然と全員好きになれた”。

シンケンのメンバーの場合、たとえば“ピュアで努力家だから”ことはを好きになった、“反抗的だけど友人には義理堅く、向上心を持ったから”千明が好きになった、という人が多いのではないでしょうか。

もちろん、“最初からいきなり好き”より、“最初はどうかと思ったけど、或るきっかけやいきさつから好きになった”ほうが“好き”度が深くなることは現実の異性関係などでも以下同文ですから、マスクの造形同様、製作陣ワザありと言っていいのかもしれない。

ところで、恒例のシーズン途中から参戦する追加戦士は“何顔”になるんでしょうね。「火水木がいて土がいるなら、金がいなきゃおかしい」という意見は当然あるでしょうね。丈瑠についているじい(伊吹吾郎さん)が“日”下部彦馬ですから、あとは“金”と“月”がいれば一週間のカレンダー成立ですよ。

しかし、顔に“金”ってつけたキャラが刀振り回してるってのも正義のヒーロードラマとしてちょっとねぇ。なんだか、振り込め詐欺とかグレーゾーン金融に気をつけましょうの啓発VTRみたいじゃないですか。画数も、“顔1コ”の面積に入れ込むには多過ぎる。

月河としては顔面“月”のヒーローが出て来てくれると嬉しいけど、左右対象にならないか。麻生太郎さんみたいに、明らかに左右対称でない顔の人でも国のトップにはなれるわけだが。関係ないか。

いっそ、“”“”の兄弟2人追加ってのはどうでしょう。『忍風戦隊ハリケンジャー』のゴウライジャーみたいに。シンケンベージュとシンケンアクア。地味か。

なんだかシンケンジャーの仮面のおかげで、漢字を見るたび「人の顔だったら…」と思うようになってしまった。本当に乗せられやすいなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする