一昨日、灘の酒福寿の『酒心館』で、昼から美味しい酒を飲んで、特に目的もない、会って雑談することが目的のような『福寿会』の二度目の会合に出席した。
酒は生酒なかなかのものである。
集まっているのはみんな歳だし、酒さえ上手ければ、料理は特に何でもいいとと言った雰囲気である。
2時間ばかり、いろんな話に華が咲いた。
集まったメンバーは、かってのカワサキの単車事業創業時からのメンバー
年次順に敬称を略して言えば、
高橋、桑畑、古谷、田崎、北村、野田の6人である。
技術屋3名、事務屋3名。
こんなセクションをそれぞれがこんな風に担当経験している。
カワサキ初期のレース部門(4名) 技術部(3名)、 製造部(3名)、 品質保証(1名)、
営業、市場開発部(6名) 国内販売(4名)、アメリカ市場(4名)
と事業部のほとんどすべての部門を担当している。
みんなが共通して結構長く所属したのは、企画部門(6名)だろう。
そういう意味では、カワサキの単車の歴史の中枢のあまり知られていない財務の話も含めて、ほとんど、ホントのところを一番よく知っているメンバーと言えるかも知れない。
単車が一番の存亡の危機と言われた83年当時、
故大庭さんが再建屋と称して事業本部長で来られたときは、高橋、古谷、北村が企画、
田崎、野田がアメリカ、桑さんは品証だった。
そのときも、ホントのところは川重の受注形態の事業部再建を手がけられた大庭さんの再建ノウハウは、ほとんど民需末端ユーザー市場の単車事業には役に立たなかったのである。
ただ、大庭さんは、単車事業そのものに愛着を持たれたし、下の意見を怖い顔をしながらもよく聞いて頂いた。
私が仕えた上司で一番意見を聞いて頂いたのは大庭さんである。
昨日も話題に上ったのが、部品の廃却話で、
事業部の部品在庫は当時は30億円に近かった。
赤字続きで不良部品の廃却が出来ない時期が続いていたからである。
期末に、5億円ほどの部品廃却申請を出した。
『5億円も捨てるのか?』 『はい』
『この部品は使えないのか?』『いいえ、使えます』
『使える部品を捨てるのか?』『そうです』
動きの悪い部品など持っていたら、どんどん倉庫は不良部品で膨れ上がってしまうのである。
PL上は赤字が増えるが、そんなのを隠して置いていても含み損が増えるばかりなのである。
このあたりは、受注事業と全然違うし、バランスシートの不良資産の観念を実戦的に使えないと、みんな根本的に間違ってしまうのである。
サラリーマン経営者が一番多く間違う、判断なのである。
5億円を一括廃却などすると本社稟議になってしまうので、何十枚もの書類に分割して廃却してしまったのである。
大庭さんがなかなか判を押されないので『ちょっと印鑑をお借りします』と
何十枚もの書類に勝手に判を押したのである。
『あの話、面白かったな』とこの話を切り出されたのは、高橋さんである。
こんな、おもしろい昔話は、こんなメンバーが集まると尽きないのである。
『共通の思い出を持つ人たち』それを仲間と呼ぶのだと思っている。
このメンバーは、仲間を超えた同志と呼べるのかも知れない。
いろんな昔話が飛び出したが、
あまり一般に知られていないのが、カワサキの部品政策の先進性である。
当初、カワサキの部品は無茶苦茶に悪かった。
部品の自動無人倉庫を国内で最初に持ったのはカワサキである。
40年経った今も尚現役である。
これを担当したのが、桑畑、田崎その後を引き継いだのが、北村である。
このカワサキの部品倉庫もさることながら、部品番号体系なども、当時では画期的な製品とは関係ない部品の種類が先行する採番方式で、これは米軍直伝のジェットエンジンの部品の番号方式だったのである。
東洋にただ一つしかなかったジェットエンジン工場、昭和30年ごろからIBM室はあったし、コード番号なども日常で使われていた。
初期の単車はそのジェットエンジン事業部から大量に単車に異動があったのである。アメリカ空軍の先進的なノウハウがいろんなところに生かされた。
技術屋さんの高橋、桑畑、田崎さん、みんなジェットエンジン組である。
部品の管理配送も、国内の全営業所、販社から部品在庫を引き上げ明石の倉庫一箇所から宅急便で全国配送を行ったのはカワサキが最初である。
この方式は、ヨーロッパでもオランダに拠点を持って欧州各国の販売店に部品直送システムを持ったのもホントに早い時期からであった。
このシステムには直接起案に関与したが、部品全体を非常に重要な機能として位置づけていた。
カワサキの二輪事業の利益の相当の部分を部品事業がが安定して寄与してきたのである。
そんな部品の昔話がいっぱい出た。
あまりにも先進的で、当時の日本の末端などは、そんなシステムに馴染めずに、納得するまで大変だったのである。
もっともっと、いっぱいあって、帰りの電車の中まで続いた。
昔の仲間だが、田崎さんなど川崎重工のトップにまで上り詰めている。
でも、こんな集まりになると時代は40年も遡って、昔の仲間に戻るので面白いのである。
こんなところで職位が出るようなら、誰も集まったりはしないのである。
それが単車独特の伝統のよさだと思う。
来月はまた、忘年会でもと別れてきた。
最後までお読み頂いて有難うございました。
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酒は生酒なかなかのものである。
集まっているのはみんな歳だし、酒さえ上手ければ、料理は特に何でもいいとと言った雰囲気である。
2時間ばかり、いろんな話に華が咲いた。
集まったメンバーは、かってのカワサキの単車事業創業時からのメンバー
年次順に敬称を略して言えば、
高橋、桑畑、古谷、田崎、北村、野田の6人である。
技術屋3名、事務屋3名。
こんなセクションをそれぞれがこんな風に担当経験している。
カワサキ初期のレース部門(4名) 技術部(3名)、 製造部(3名)、 品質保証(1名)、
営業、市場開発部(6名) 国内販売(4名)、アメリカ市場(4名)
と事業部のほとんどすべての部門を担当している。
みんなが共通して結構長く所属したのは、企画部門(6名)だろう。
そういう意味では、カワサキの単車の歴史の中枢のあまり知られていない財務の話も含めて、ほとんど、ホントのところを一番よく知っているメンバーと言えるかも知れない。
単車が一番の存亡の危機と言われた83年当時、
故大庭さんが再建屋と称して事業本部長で来られたときは、高橋、古谷、北村が企画、
田崎、野田がアメリカ、桑さんは品証だった。
そのときも、ホントのところは川重の受注形態の事業部再建を手がけられた大庭さんの再建ノウハウは、ほとんど民需末端ユーザー市場の単車事業には役に立たなかったのである。
ただ、大庭さんは、単車事業そのものに愛着を持たれたし、下の意見を怖い顔をしながらもよく聞いて頂いた。
私が仕えた上司で一番意見を聞いて頂いたのは大庭さんである。
昨日も話題に上ったのが、部品の廃却話で、
事業部の部品在庫は当時は30億円に近かった。
赤字続きで不良部品の廃却が出来ない時期が続いていたからである。
期末に、5億円ほどの部品廃却申請を出した。
『5億円も捨てるのか?』 『はい』
『この部品は使えないのか?』『いいえ、使えます』
『使える部品を捨てるのか?』『そうです』
動きの悪い部品など持っていたら、どんどん倉庫は不良部品で膨れ上がってしまうのである。
PL上は赤字が増えるが、そんなのを隠して置いていても含み損が増えるばかりなのである。
このあたりは、受注事業と全然違うし、バランスシートの不良資産の観念を実戦的に使えないと、みんな根本的に間違ってしまうのである。
サラリーマン経営者が一番多く間違う、判断なのである。
5億円を一括廃却などすると本社稟議になってしまうので、何十枚もの書類に分割して廃却してしまったのである。
大庭さんがなかなか判を押されないので『ちょっと印鑑をお借りします』と
何十枚もの書類に勝手に判を押したのである。
『あの話、面白かったな』とこの話を切り出されたのは、高橋さんである。
こんな、おもしろい昔話は、こんなメンバーが集まると尽きないのである。
『共通の思い出を持つ人たち』それを仲間と呼ぶのだと思っている。
このメンバーは、仲間を超えた同志と呼べるのかも知れない。
いろんな昔話が飛び出したが、
あまり一般に知られていないのが、カワサキの部品政策の先進性である。
当初、カワサキの部品は無茶苦茶に悪かった。
部品の自動無人倉庫を国内で最初に持ったのはカワサキである。
40年経った今も尚現役である。
これを担当したのが、桑畑、田崎その後を引き継いだのが、北村である。
このカワサキの部品倉庫もさることながら、部品番号体系なども、当時では画期的な製品とは関係ない部品の種類が先行する採番方式で、これは米軍直伝のジェットエンジンの部品の番号方式だったのである。
東洋にただ一つしかなかったジェットエンジン工場、昭和30年ごろからIBM室はあったし、コード番号なども日常で使われていた。
初期の単車はそのジェットエンジン事業部から大量に単車に異動があったのである。アメリカ空軍の先進的なノウハウがいろんなところに生かされた。
技術屋さんの高橋、桑畑、田崎さん、みんなジェットエンジン組である。
部品の管理配送も、国内の全営業所、販社から部品在庫を引き上げ明石の倉庫一箇所から宅急便で全国配送を行ったのはカワサキが最初である。
この方式は、ヨーロッパでもオランダに拠点を持って欧州各国の販売店に部品直送システムを持ったのもホントに早い時期からであった。
このシステムには直接起案に関与したが、部品全体を非常に重要な機能として位置づけていた。
カワサキの二輪事業の利益の相当の部分を部品事業がが安定して寄与してきたのである。
そんな部品の昔話がいっぱい出た。
あまりにも先進的で、当時の日本の末端などは、そんなシステムに馴染めずに、納得するまで大変だったのである。
もっともっと、いっぱいあって、帰りの電車の中まで続いた。
昔の仲間だが、田崎さんなど川崎重工のトップにまで上り詰めている。
でも、こんな集まりになると時代は40年も遡って、昔の仲間に戻るので面白いのである。
こんなところで職位が出るようなら、誰も集まったりはしないのである。
それが単車独特の伝統のよさだと思う。
来月はまた、忘年会でもと別れてきた。
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