昨日、Facebook のノートに 『1945年8月15日正午』 と言う69年前のことを書いたら、沢山のコメントを頂いた。
逆にコメントの方からご紹介する。
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角野 學 終戦の日の思いが伝わるお話です。私は1947年生まれですが今の時代に感謝です。
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鶴田 竜二 古谷さん、貴重なお話をありがとうございます。
戦争を知らない世代の私にとって凄く興味深い話です。
私の祖父は当時国鉄員でした。ビルマで泰緬鉄道を建設するために現地に行き過酷な作業だった為、怪我をし、それがもとで破傷風となり亡くなったそうです。享年33歳だそうです。 -
古谷錬太郎 鶴田さん、こんにちは。ビルマは大変だったようです。私の母方の伯父もビルマで病で亡くなりました。戦後69年も経って当時の戦時中のことや戦後のことをご存じの方も少なくなっています。私は川航空機にご縁があって入りましたが、もし明石に川航がなかったら明石に爆撃などはなかったと思いますし、その爆撃で叔父、叔母が亡くなったりしています。
戦争は、いろんな不幸を産みましたし、生活が一変したりはしましたが、そんな貴重な経験が出来たことで、その後の人生も変わったと思っています。いい方向で捉えることにしています。
カワサキに入ったお陰で、今お付き合いのある人たちとも、鶴田さんとも会えました。 -
井上 博之 明石の空襲では大勢の人が明石公園に逃げ込みました。私の伯父・伯母もその中に居たのですが、防空壕が満員でそのまま櫨谷のほうに逃げた直後、防空壕に爆弾が直撃して中に非難されておられた方は全員なくなられたそうです。
川重には私の母が勤労動員で働いていましたが、終戦後焼け野原になった明石の雨の夕方にはあちこちで鬼火が見えたと言っていました。
当時のことは伯父・伯母も母もあまり語りたがりませんでしたね。それだけ悲惨な状況だったのだろうなぁと今更にして思います -
古谷錬太郎 井上さん、明石のご出身ですか?私も戦時中はソウルにいましたので空襲のことは知りませんが、伯父や伯母の話ではそれは大変な事だったようです。伯父の家は公園の外堀に面していたのですが、あの堀が公園に避難した人の死骸でいっぱいだったそうです。みんな公園に爆弾が落ちるなどとは思いもしてなくて、伯父の家も神戸の人たちの荷物をいっぱい預かってたそうです。終戦後帰国して見た明石公園は木々がみんな焼けてしまって何もないような状況でしたが、松は復活しませんでしたが、樫などの広葉樹は生き返って今のような状況になりました。アレから70年ですから・・・
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鶴田 竜二 古谷さん、ありがとうございます。
ビルマからタイを結ぶ泰緬鉄道は私が調べただけでも本当に大変だったみたいです。本来完成までに5年はかかると言われていたのが、わずか約1年4ヶ月で完成させたみたいです。それだけに工事の過酷さが余計に予測されます。
雨期の中ドロドロになりながらジャングルを切り開いたり、コレラやマラリアが蔓延し多くの方がお亡くなりになられたみたいです。・・・もっと見 -
松本 巌 ソウルは環境良かったのですね…亡父の居た満州では終戦直前にソ連兵の乱入が有り友達が銃撃されて即死だったと…女子供無差別に殺されたそうで最近までそんなバカな話…と信じられませんでしたが実際に非戦闘員の殺戮は有ったらしいです…
最近嫁用にTriumphのBonnevilleを買ったのをきっかけに大脱走を観たのですが…捕虜になったら脱走して敵を攪乱するのが軍人の務めと…
一方帝国軍人は捕らわれて辱しめを受ける位なら自決せよと厳しく洗脳されていたと…この武士道精神が災いして捕虜を蹂躙し国際法に背いたので敵国の日本人に対する敵意が増してしまったのでしょう…そのお蔭で外地に居た日本人がシベリアに抑留されたり酷い目に遭ったのではないか…このように聴かされた記憶が有ります。 -
古谷錬太郎 松本さん、こんにちは。ソウルはアメリカ軍でしたから、特には何もありませんでした。同じ種類の動物で殺しあったりするのは人間だけですね。そう言う意味では動物の方が賢いようにも思います。こんなこと言うと人間は動物ではナイと怒られそうですが・・・・
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岩本 和久 軍の警察をやっていた父の叔父が、終戦時に満州にいましたが、ソビエト軍に捕えられて、シベリア抑留となりました。だんだん奥地まで行き、最後はタシケントまで行って、そこで強制労働させられました。仲間がたくさん亡くなり、抑留期間はなんと4年にも及びました。やっとの思いで帰ってきて、生きて行くために祖母がやっていたおかき屋を手伝いはじめたのが弊社の歴史の創生期です。黎明期は父が18歳で継いだ頃ですが、当時の食糧事情はひどく、サツマイモばかり食べてたとか。父の知人も神戸方面で三菱の工場で、極秘裏にロケットエン
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ピュア ドルフィン貴重な体験談ですね!(ノ゜ο゜)ノ オオォォォ- T8年生まれの祖父が戦争に行ってたので現地の話はよく聞きましたが、三木市のことはきかなかったです。T9年生まれの祖母は、祖父の留守を守っていたというのは聞きましたが、三木市にも焼夷弾が落ちていたのですね
1945年8月15日正午
1945年8月15日正午、 朝鮮京城(今のソウル)の城東中学の1年生でした。 炎天下の校庭で直立不動で天皇陛下の玉音放送を聞きました。よく聞こえませんでしたが、『戦争が終わった』ことだけは解りました。
当時の朝鮮は日本でしたが、戦時中は空襲もなく、食料事情などもよくて、何の不自由もない生活でした。
その年の12月に、1人1000円だけを持って、文字どおり『着の身着のまま』で、日本に引き揚げてきてからが、本当に戦争の影響を経験したと言えるでしょう。明石のまちは焼け野原でした。伯父の家のあった上の丸あたりは、爆弾の落ちた後の逆三角形の大きな穴がいっぱいでしたし、無数の焼夷弾が地面に突き刺さっていました。
翌年の4月に中学校の1年生に再入学し、今の伊川谷から明石駅まで歩き、電車に乗って灘から学校まで地獄坂を毎日歩いて通う、考えられないような通学でした。中学2年生の時に、天皇陛下の神戸行幸があったのですが、神戸にはホテルがなくて、天皇陛下は神戸一中の3階の教室を改装した部屋に泊まられました。そんなこともあって、私のクラスは、天皇陛下の天覧授業を受けたりしました。
天皇陛下がなぜ神戸一中に泊まられたのか? 当時のGHQがそれを調べて、『英才教育をする学校』と言うことで、所謂『学区制』検討の端緒になったとも聞きますが、その真偽はよく解りません。高校3年生の時に『学区制』が施行されて、特に神戸一中は厳しくて、生徒だけではなく学区外から通う先生にも適用されました。私はそれで、明石高校に転校したのですが、同級生の多くと先生たちが『灘高校』に移ったのです。このころから急激に灘高校は優秀な進学校になりました。
当時の食糧難は半端なものではありませんでした。米などは殆ど口にすることは出来ず、いもやなんば粉のパンなどでしたが、なぜか今のサツマイモやトウモロコシとは全然違っていたような気がします。特に『なんば粉のパン』はまずくて、その後も『トウモロコシ』の印象はよくなかったのですが、多分今のトウモロコシではなくて動物の食料にするトウモロコシだったのだと思います。
こんな戦後の困窮は、1950年朝鮮戦争が勃発し、戦争景気で急激に日本の復活が始まる時期まで続きます。当時はずっと野球部で野球をしていたのですが、夏の予選の前の合宿の楽しみは、米の飯が食えることでした。
そんな苦しい時代を経て、日本は素晴らしい発展をしたと思います。
そんな日本の姿を見ながら69年、こんなに極端な時代の変化とともに生きられたことは非常によかったと思っています。
そのスタートが69年前の8月15日正午だったのです。