★ 二輪文化を伝える会 のツイッターに今朝アップされていた。
西山秀一さん、カワサキにとってというか、私にとって懐かしく、本当にお世話になった方である。
カワサキがレースをスタートされたころ、昭和36年(1961)年当時は、川崎航空機の中でレース界のことなど解る人は殆どいなかった。
兵庫メグロの西海社長が、子飼いの松尾勇さんを川崎航空機の製造部に放り込んで、当時のカワサキのレーサーはすべて松尾勇さんの手で仕上げられたと言っていい。
当時の川崎航空機にはエンジンの専門家はいっぱいだったのだが、バイクの専門家はいなかったというのが現実だったのである。
当時のレース界は、未だMCFAJ のクラマンレースの全盛期で、MFJはスタートしたばかりだったのである。
二輪雑誌もオートバイ誌とモーターサイクリストの2誌しかなくて、レースはエンジンは技術部、マシンは製造部の松尾さんの『レース職場』、ライダー契約やレース運営全般は広告宣伝課という『レース運営委員会』で統括されていた。
『レース運営』についても解らないことだらけで、そんなカワサキの『レース運営』に熱心に指導頂いたのが西山秀一さんで、明石にもしょっちゅう来られていたのである。
『レース』という特殊な世界なので、カワサキと言っても私とレース職場やライダーたちと接触されてただけで、ほかの方はあまりご存じないことだと思う。当時から『トライアル』などのことなどもよく話されていたし、ちょうどB8Mが造られた頃で、まだ高校生だった西山俊樹さんもそのB8M に乗ってたりしたのである。
当時の全日本モトクロスは、殆どがMCFAJ のクラブマンレースで、富士や伊豆丸の山高原など壮大な原野で行われていて、カワサキが初優勝したのも、4種目中3種目に優勝して確固たる基盤を固めたのも、MCFAJのレースだったのである。
そんなことでライダーたちはメーカー契約以前に、カワサキコンバットや神戸木の実クラブなどのクラブ員の資格で各レースに出場しており、スズキの城北ライダースやマウンテンライダース、ヤマハのスポーツライダースなどのメンバーが日本のモトクロストップライダーであった。
当時2サイクルを持たなかったホンダは、モトクロスには出場していなかった頃である。
そんな時代、レース場に常におられたのが西山秀一さんで特に新入りのカワサキはいろいろとお世話になったのである。
1970年代になってレースから離れてからは、殆どお会いすることもなく過ぎてしまったが、一度是非お会いしたかった方なのである。
2月25日がご命日だとか、こころからご冥福をお祈りしたい。