★このシリーズも何となく書き始めて30回近くになろうとしている。
いろんな資料がいっぱい残っているので、書くこと自体は幾らでもあるのだが・・・・次回からは1年ごとにまず時系列に追っかけてみたいと思っている。
今回はこんな表が出てきたので、
興味・ご関心のある方はこの表をよくご覧になってみて下さい。カワサキ二輪事業の50年粗っぽくですがよく纏まっていると思っています。
カワサキの二輪事業の50年を総括しています。
『年齢』
20代から70代までの纏めである。『カワサキの二輪事業』との関わりは20代から60年代で一応は終わっているのだが、70代になっても尚二輪関連とのご縁は続いていて、むしろそれをベースに生きているので、延々と『カワサキの二輪事業』との関わりが続いているのである。
『KHI/出向』
私は昭和32年(1957)24歳の時に川﨑航空機工業に入社し、その後川重・川車・川航の3社合併があって川崎重工業籍となっているのだが、その約40年間のうちちょうど半分の20年を国内の販売会社に出向していて、端的に云うと、国内市場での末端第1線でのマーケッテングの経験を生かしたKHIでの業務展開だったと言っていい。
従って、川崎重工業の中だけで育った人とは、体質的にも全然違った目で眺められたし、事業中枢の企画室が殆どだったから『カワサキの二輪事業トータルの姿』を長く見てきたと言える。
特に50代からは、川崎重工業の大西・山田・松本・高橋歴代副社長の直接のご指示で動いていたのだがこの期間が、カワサキ二輪事業の一番の危機で、その対策に高橋鐵郎さんと共に奔走していたのである。
『部門』
ご覧の通り40年の間に16回も職場を異動しているのだが、自分で希望した職場異動などは一切なくて、特に50歳代の私の人事はすべて、川﨑重工業副社長の直接の指名で、具体的な課題を与えられての異動ばかりなのである。
ほとんどの仕事は、『半年あれば目途が立つ』と言っていい。逆に『半年で出来ない』ようなやり方では何年経っても『物事が実現』などしないのである。
二輪事業という世界各地に展開する特殊な新しい事業であったこともあるのだが、30代で広告宣伝の仕事を任された時に『課長』という職位を頂いて、その後すべて何らかの形で『長』という立場だったし、仙台事務所長以降は殆ど全て販社経営など所謂『経営者』の立場ばかりで呼ばれた職位も常務・専務・社長などと若い時代から呼ばれ慣れしていたので、あまり職位などには興味がなくなってしまったのである。これは私だけではなくて事業創世期に海外などに出た若手は川重の係長時代に海外の社長をやってた連中もいっぱいいるのである。そういう意味では、今の現役諸君は気の毒だなと思っている。
『仕事の内容』
二輪事業ではないのだが『IBMの償却システム』という仕組み創りが最初の大きな仕事で、この経験が非常に役に立ったし、二輪事業そのものが企画・開発・生産・販売・末端ユーザー対策などの『仕組み創造』の事業だし、特に販売はセールスが売り歩いた4輪車と違って、二輪販売店をどのような形で構築するかという、まさに『仕組み創り』だったので『システム』という言葉がいっぱい並んでいるのである。
そんな中でも、特に一般の方が出会っていない業務が広告宣伝とレースだろう。『広告宣伝』はこれは非常に奥の深い分野なのだが、広告宣伝課を30歳で担当した時にその予算が1億2000万円という当時のサラリーマンの年収が40万円の時代にそんな膨大な予算を3年間持っていたので、電通・博報堂・大広と言った一流広告代理店の本社企画部門のスタッフたちが群がってきたのである。そんな一流のマーケッテング専門家とのお付き合いで、若い時代に本格的なマーケッテングやイメージ・ブランド戦略など非常に高度なことを学ばせてもらった経験が『カワサキ独特のブランドイメージ創造』にも幾らかでも貢献できたとは思っているのである。
それと密接に関係したのが『レース』なのである。それもカワサキの創世期のレースで、ホンダ・スズキ・ヤマハの競合他社に対して、勝るものが一つもなかった時代にレースだけは『赤タンクのカワサキ』として、レース界で明確にその位置が確保できたし、広告宣伝と合わせて担当していたので、非常にその展開はやりやすかったのである。
仕事関係で、もう一つ私自身が『専門分野』と言えるのは『経営再建』というか『赤字対策』なのである。仙台事務所長の時期はまだ地方は自前の代理店があった時期でその経営が非常にムツカシク、メーカーの意図通りに拡販に協力する代理店ほどその資金繰りから経営は『赤字転落』が続いた時期で、次々にメーカーの資本が入り子会社化されてゆくのである。
こんな実態をみたり経験して、私自身は経営は『資金繰りが基本』だということは身に染みて解っているのである。40代・50代と続いて国内販社・川重二輪事業本体の経営再建をいずれも2年で『経営再建』が実現出来たのは、若い時代の仙台での経験や、東南アジアでの華僑の事業展開のやり方が身についていたからなのである。
従って、私のカワサキでの仕事は、システム構築・広告宣伝・レース・経営再建 の4つかなと思っているのである。
『全く新しいこと』
『全く新しいこと』といういう分類を創っているのは、担当したいろんな仕事は『新しい仕事』ばかりだったのである。
私は16回も職場を異動しているのだが、『前任者の引き継ぎ』を受けたことは一度もないのである。全く新しい課題ばかりだったので、すべてが新しいやり方でしか通用しなかったと言っていい。
一番最後の仕事だけが二輪事業ではなくて、『北海道川重建機』という子会社ではない優良会社の社長を頼まれているのだが、これは当時川重副社長で建機関係も担当されていた高橋鐵郎さんに頼まれたのである。 子会社でないからなかなかいうことを聞かないし、ムツカシイ役員や株主がいて大変なのである。川重の中でなかなか適任者がいなくて2年でいいからと単身赴任したのである。私にとっても新しい経験だったが、仙台時代の自前の代理店がどんなものだったかという経験が大いに役に立って、2年間で次の社長は川重から出せるような雰囲気の会社に仕上げて戻ってきたのである。実質オーナーの方からは『何年でもやってください』と言われていたのだが、お約束通り2年で単身赴任を終えて戻ってきたのである。『北海道川重建機』にも、その従業員の方にも『二輪事業の良さ』みたいなものは感じて頂けるような2年間であったのである。
『一言で云えば』
勉強機関
カワサキにとって二輪事業は全く経験のない新しい事業だったのである。技術屋さんたちも確かにエンジンについては専門家が揃ってはいたが、二輪車の専門家はいなかったし、販売に関しても末端の販売網など解る事務屋は一人もいなかったのである。ましてや海外市場など解るはずもなく手探りの第一歩、勉強からスタートしているのである。
新しいシステム構築
企画・開発・生産・品質保証・部品補給・販売・販売会社経営・販売網構築などなどすべてが新しいシステム構築だったのである。それは個別の分野の個別システムの構築からスタートしたのである。
経営再建
量産事業の基礎は数である。数の増大は魅力である。シェア競争がそれに拍車をかける。ただ、やり過ぎるとその反動はすさまじい。今まで事業を引っ張ってきたアメリカ市場が突如大きな足を引っ張る要素になり、一時事業の継続もムツカシイかと思われるカワサキの二輪事業の危機の時代があったのである。
事業経営
そんな経営危機の時代を乗り越えて、何とかトータルの事業経営の仕組みもできて『事業経営』に専念できるようになったのは、事業をスタートしてから約20年の年月を要したと言っていい。私の50年代・60年代は、幾多の経験を経て事業経営に『専念』できる出来る環境にようやくなったと言っていい。
70年代・80年代
そして、70代・80代にもなっても尚、カワサキの二輪時代のノウハウ・ソフトで NPO The Good Times など、現代の『ネット社会』の中で結構楽しく過ごせているのである。
『その時 カワサキは』
この50年間、一緒に歩んだカワサキは、こんな出来事があったのである。
みんないろいろ、カワサキの二輪事業に大きな影響を与えているのだが、
60才代になって
● Good Times コンセプト復活
● 川崎重工業 大庭浩社長
● 川崎重工業 高橋鐵郎副社長
● 川崎重工業 田崎雅元社長
この4つの出来事は、少なくとも私の協働で実現したと言わして頂けるのかなと、秘かに思っているのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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