雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私 その48 昭和52年(1977)

2017-04-10 06:33:35 | 自分史

★カワサキの二輪事業にとって昭和50年代は、激動の時代であったと言っていい。

アメリカ市場をベースに順調に業容を拡大してきたカワサキの二輪事業も、その母体であったアメリカKMCの経営に陰りが見えはじめ、今後の二輪事業をどのように展開すべきかなのか、大きな転換点という時期にあったと言っていい。

それは川崎重工業としても本社の吉田専務が直接旗を振られていたのだが、そのような時期に私自身は企画室企画部で、事業計画・長期展望戦略の策定を命じられていたのである。

その具体的な提案として、新市場開発途上国のCKD事業をその嚆矢として提言し、結果的には『市場開発プロジェクト室』の高橋鐵郎室長を援けて自ら異動することになったのが、昭和51年11月のことだったのだが、その開発途上国市場の対応がそれなりに順調に推移したこともあって、その後の事業部展開は、髙橋鐵郎さんを中心に目まぐるしく職制変更などが続くまさに『激動の時代』に入っていくのである。

そんなこともあって、私自身もその渦中の中に身を置かざるを得なかったのである

 

時系列に並べてみると

● 昭和50年10月 発動機事業本部企画室企画部門 事業計画・長期戦略担当

● 昭和51年11月 その提案、小型車プロジェクトの新組織『市場開発プロジェクト室』へ異動   (高橋鐵郎室長)

● 昭和52年7月  ヨーロッパの大型二輪車を含む 営業総括部の企画部門の担当         (高橋鐵郎総括部長)

● 昭和53年4月  発動機事業本部内に単車事業部が発足、その管理部門担当           (高橋鐵郎事業部長 田崎・野田課長も管理部に)

● 昭和54年1月  ダンピング対策の一環として、新国内販売会社『カワ販』を担当        (塚本社長高橋副社長・古谷常務)

 

半年ごとに組織変更が行われ、アメリカ市場を担当されていた浜脇洋二さんは川崎重工の本社部門に戻られ、Z1の開発など担当された大槻幸雄さんは『ガスタービン部門』に移られることになったのである。

 

昭和52年(1977)年は、そんな激動の時期の始まりと言ってもいい年であった。

開発途上国市場は、イラン・インドネシア・タイを中心にスタートしたのだが、さらにコロンビア・パキスタン・ナイジェリア・ブラジルなどへも広がりを見せるのである。

CKD市場を担当したメンバーは、私自身もまだ45歳だったが、みんなそれ以上に若いメンバーばかりでだった。

 

イランは、山辺昻さん、岩崎茂樹・鶴谷将俊、それにサベイの工場に単身赴任していたのが、佐伯達彦さんである。

インドネシヤは、石井三代治さん、そのメンバーは多賀井・大竹英雄・にカワ販から久後さん。

タイは、私と小池博信、カワ販から耕守さん

技術サポートメンバ―に藤浦尭士さんなど錚々たるメンバーで、事業そのものも若かったが、それを第1線で支えたメンバーもみんな30代・40代の若手だったのである。

 

 

★この年の7月の組織変更単車事業部となり、『カワサキの二輪部門の事業戦略』を担当することになるのだが、その時私が策定の骨子とした『販売戦略の基盤とその対応』がコレで、

 カワサキの二輪事業の一端をご理解頂けるかと思うのである。

 

 

      

 1.基本目標は、量の拡大と利益の確保の両立である。

 その対応は個々の努力(個々の営業の努力)の集積では不可能で、強力な中央コントロールによる事業運営とそのトータルシステムの仕組み創造が世界展開する二輪事業では必須だと思っている。

 

2.基本認識

 需要は安定成長または低成長、開発途上国へのCKD化、先進国では、音・馬力・排ガスなどの各種規制が厳しくなりかけた時代であった。

 

3 カワサキの二輪事業の特殊性

 ●大型車種をベースとした事業である

  CKD分野に進出したが、当時は大型車種の完成車が利益の根源であったし、シェア25%の確保と、特に利益率の確保がMUST条件だと思っていた。

 ●北米をベースとした事業である

  当時はアメリカの KMCの経営が『量と質』の両面から必要だったのだが、この後これが確保できずに大問題となるのである。

 ● 市場を開拓する必要性

  当時はCKD が新市場であったが、今は先進国が新市場かも知れない。常に新し事業に挑戦すべきで、現状否定がそのスタートである

 ● 最大の市場、日本を残している

  90年代にそれに『チャレンジ』し、国内市場で7万台販売、売上高400億円の史上最高の実績を残している。

 ●  コストは少なくとも他社より安くはなりにくい

  他3社に比較して量産の量が違うのでコストが安くならないので、価格政策や流通経費の削減を独自の経営システムで確立する必要がある。

 ● 大型車Z1でのイメージはいい

  Kawasaki 独自のブランドイメージの確立を商品企画と共に、流通分野でも独自の展開をすべきで、それは成功して『カワサキブランドのいま』がある。そのベースにあるのは、『戦略的・継続的な情報発信』である。

 ● 中央コントロール体質になりにくいこれは『カワサキ二輪事業の最大の問題点』である。

  ホンダ・ヤマハ・スズキには本社機能があるが、カワサキは事業部制なので『本社機能』が育ち難く、流通部門の人たちが、プロとして中央コントロールする立場になりにくい。

 ● 時期的に先行投資がやり難い

  これは当時はそんな事業部経営状況であった。

 ● 経験は乏しいが人材の質はいい

  ホンダ・ヤマハ・スズキに比べて当時は間違いなく、経験が乏しかったが、当時は人材育成を現地でのローテーションで行うこととした。

 ● 戦略的体質に欠ける

  どちらかというと、努力の集積型で、Top ダウンで戦略的にものを考え難い優等生型体質のように思う。

 

ざっとこんな風に思っていた。

 高橋鐵郎さんが海兵出身で、『戦略的思考』にも『マーケッテング・マインド』に対しても非常に関心をお持ちだったのである。その髙橋さんを現役時代ずっと支えたことで、この時期以降、1980、90年代の約20年間のカワサキの二輪事業は、こんな原点の発想をベースとして展開されたのである

 

 

 ★カワサキの最大のヒット商品というと、Z1、ZEPHYR、FX400 などがアタマに浮ぶのだが、圧倒的な台数を誇ったのは 開発途上国で売られたKawasaki GTO 110ccなのである。明石工場からはCKDで開発途上国への部品出荷となるため、その台数が記録に残っていないのだが、圧倒的な台数で最盛期は年間この機種だけで4万台以上が売れたのではないかと思っている。

 

    

 

  このGTO について、こんなブログをアップしている。

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

 

  私は技術的にも詳しくないし、カワサキの商品企画には殆ど口を出したことはないのだが、唯一この Kawasaki GTO 110ccだけはその開発計画書も自分で書いたし大槻部長の技術会議にも出席して、直接お願いをしているのである。

最初は『ダメだ』と言われていたのだが、『カワサキの2サイクルは松本』と言われている松本博之さんに助け船を出して頂いたのである。

その時のことを過去のブログにこのように書いている。

 

 ● 松本博之さん

カワサキの歴史の中で、一番のヒット商品と言うか一番数を売ったのは、Kawasaki GTO 110ccであることは殆ど知られていない。CKD なので台数は記録されていないのだが、東南アジアで生産されて毎年40000台以上も売れたダントツの大ヒット商品なのである。この機種の開発をお願いしたのだが、当時の技術部長の大槻さんは頑として首を縦に振ってくれないのである。その時『私が造りましょう』と助け船を出してくれたのが松本博之さんで、その一言で生まれたのが、Kawasaki GTO 110cc なのである。

この機種によってカワサキの東南アジア市場の今がある と言っても過言ではナイ。

 

この計画書を書いたのが、昭和52年(1977)10月なのだが、その新車発表会が大々的に行われたのは2年後の1979年9月で、私はその時はすでに国内販売に異動していて、高橋さんや桑畑さんが出席されている。

当時、タイ市場を担当していた小池博信さんの書かれた『豪華川崎GTO青春物語』の冊子からの1ページである。

 

    

 

 ★この年の10月28日に、田崎雅元さんと、ハーレのダンピング問題の話をしたと日記に書いている。

カワサキがアメリカでダンピングのような安値で売っていたわけではないのだが、『アメリカのダンピング法』ではアメリカでの流通段階の経費率以上は認めないというルールなので、アメリカの短い流通経路に比べて、日本の場合は、カワ販地域販売会社販売店 とカワサキだけが一段階多い上に『カワ販の本社』が大きかったために、その流通経費率が高く計算上ダンピングとみなされてしまうというのである。

ダンピングは、アメリカ担当の田崎さんが担当していたのだが、その対策は『アメリカの問題』ではなくて『国内の流通機構の構造問題』だったので、相談を受けたりしたのである。ダンピング問題は、この時期あたりからのスタートで、翌年には本社も巻き込む大問題の対策となるのだが、具体的なカワ販改組案がなかなか成案せずに最後私にお鉢が回ってくることになるのである。

それはちょうど1年後のことなのだが、この国内対策もまた大変だったのである。

 いろいろなことがあった、昭和52年のカワサキの二輪事業であった。

 

 ★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

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