★明石工場内に「単車準備室」が開設されたのは昭和34年(1959)で、当時私はまだ財産課にいた時にお声が掛かったりしたのだが、
当時は財産課でIBMでの償却計算システムを完成すべく頑張ってた時期なのでお断りしたような経緯もあった。
翌年の昭和35年夏ごろには明石工場内に24工場も完成して、
メイハツ・ニューエースと姉妹車のカワサキ・ニューエースを1960年8月より生産したらしいが、詳しいことは解らない。
この年の10月には私自身が肺結核で療養所に入院してしまうのである。
そして翌年昭和36年(61)12月に退院し、
新しく出来たばかりの『単車営業課』に配属になったのである。
カワサキとしての初めての生産車は『125B7』と『カワサキペットM5』が1962年度初頭から生産開始にはなっていたのだが、
正式に単車営業課が出来たのは12月だったのである。
★この時代の特に営業関係のことなど、
今となっては私以外に知ってる人は殆どいなくなってしまったのでは?と思う。
当時の技術部や生産関係には関係のあった方はそれなりに多かったと思うが、
『単車営業』と言っても『発動機部門』の中の単車営業課なのでホントに限られていて、機能としては営業も部品も品証もあったのだが、
部品は正垣さんと納さんの二人、品証というかサービスは吉田さん以下3人、営業は私と女子(藤田孝昭さんの妹さん)
私の上に壱岐係長がおられただけの陣容なのである。
私の上に壱岐係長がおられただけの陣容なのである。
その上に北沢課長と小野次長がおられたのである。
私は入社4年目だったが、部品やサービスの面倒も見ていたし、
出荷や物品税は勿論、広告宣伝らしきものも業界紙対応も、
その他現在の事業本部で事務屋さんがやってることは全てやってたので、その忙しさは大変だったのである。
当初も大変だったが、慣れるに従って
守備範囲がどんどん広くなって、職制変更の度にメンバーも増えるが業務も増えて、
現役時代で『一番忙しかった』のは間違いなくこの時期なのである。
★この時期は単車事業がスタートしたばかりで事業内容は安定せず、
世の中は『事業部制』なるものが出現した時期でもあって、
兎に角『職制変更』が頻繁に行われ、
その度毎に『私の担当業務』はその範囲が増大していったのである。
よくお解りにはならないと思うが、これくらい頻繁に職制変更が行われたのである。
昭和36年(61)12月 発動機営業部単車課単車係
昭和37年(62)3月 単車部単車課業務係 場所も14工場に移動
4月 発動機事業部第2営業課業務課
11月 発動機事業部第1営業部業務課
昭和38年(63)4月 発動機事業本部営業企画課管理課
11月 単車事業部に発単分離
昭和39年(64)1月 単車事業部営業企画部広告宣伝課
この間、1962年の12月に結婚しているのだが、
結婚式の日は12月21日で、ホントはもっと早く結婚したかったのだが、
この時期は休みを取って『新婚旅行』などとても考えられなかったほど、
会社の業務が忙しかったし会議の事務局などやってたので、休むわけにはいかなかったのである。
暮れの21日なら、この年は終わりだし正月休みも含めて休んでも大丈夫だからと『会社の事情』でこんな日になっってしまったのである。
結果的には半月ほどの結婚休暇が取れてよかったのかも知れない。
仲人は私を単車営業に引っ張って頂いた『小野助治』さんが引き受けて下さったのである。
★ ただ単車事業の方は、昭和38年度(63)になると
新しく125B8が上市され、これが期待以上に評判が良くて、
放っておいてもよく売れたし、
青野が原のモトクロスでも1位~6位独占などの成績を上げるなど、
ようやくカワサキ単車も何となく落ち着いて、
日本能率協会も『この事業やるべし』という結論になるのである。
この時の決定の条件の中に『広告宣伝課を創る』というのがあって、
それを私が担当することになるのだが、
それまでは広告宣伝は『カワサキ自販』で担当されていて、
それはあのフィリッピンの小野田中尉の弟さんの『小野田滋郎』さんが総務課長兼務で担当されていたのだが、
その小野田滋郎さんに私はすっかり『見込まれていて』いろんなお手伝いをやっていたのである。
私の現役時代、『この人にはとても敵わない』と思ったのは、
『小野田滋郎さんだけ』かも知れない。
それくらい素晴らしかった。
陸士出の秀才で、戦略・戦術・戦闘などの実践論を確りと教えてくれたのも小野田さんである。
当時『お兄さんがフィリッピンで生きてるかも』という情報があったのだが、
『小野田さんのお兄さんなら間違いなく生きている』と私は信じて疑わなかったのである。
左が小野田滋郎さん、
カワサキのレースのスタートは『青野ヶ原』ということになっているが、
B7時代に三吉一行などがMCFAJ 全日本に出場しているその仕掛け人が小野田さんなのである。
青野が原の後、ヤマハから三橋実を引っこ抜いて、厚木にカワサキコンバットを創らせたのも小野田さんなのである。
私の広告宣伝課担当は『小野田滋郎さんから広告宣伝を引き継ぐ形』で自然に決まったのかも知れない。
いつの間にか『広告宣伝課を担当』することになったのである。
★ この『広告宣伝』という業務を本格的にやれたということは、
本格的なマーケテングが学べたし、
私のその後の人生の『差別化』に繋がったと思っている。
『レースの世界』を経験したことも本当によかたった。
こんな世界は、ご縁がなければとても入っていける世界ではないのである。
その経験のいずれもが、人生を非常に豊かにしてくれたと思っている。
そういう意味では、『無茶苦茶忙しかった』のだが、
今となってみれば『いい想い出や経験』ばかりなのである。