雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの単車事業のスタート時代 その4 自分史

2021-02-27 06:24:14 | 自分史

★昭和39年(1964)1月から広告宣伝を担当するようになって、
私の会社での仕事の内容も『一変した』と言っていい。

それまではカワサキの広告宣伝は『カワサキ自販』で担当していたのだが、
この年から単車が発動機から分離され本格的な事業推進を行うに当たって、
日本能率協会は『広告宣伝課を創ること』を条件に入れたので、
川崎航空機の本社は開発費として3年間1億3000万円の広告宣伝費を出してくれたので、
当然『広告宣伝業務』をカワサキ自販から引き継ぐことになったのである。

 
小野田寛郎さんの弟さんの小野田滋郎さんと具体的な仕事を一緒にしたのはこの時が初めてだったが、
小野田さんの凄さ』その仕事ぶりにビックリしてしまったのである。
世の中にはこんなに優秀というか『仕事ができる』人がいるのである。


★カワサキに広告宣伝課が出来て1億を超す予算があると聞きつけて、
電通・博報堂・大広・毎日広告など多くの広告代理店が売り込みに来て、
広告代理店の『売り込み』は当然のことながら、めちゃ熱心にいろんなことをいろいろ言うのである。

向うのペースのままではどうしようもないので、
代理店選定基準』として、各社に共通の質問として『15項目の質問』を創ったのである。

その殆どは小野田さん主導で創られたのだが、
貴社の創造的能力を図示説明してください』
『貴社の当社担当グループの能力・経験・人員・協力頻度を・・』
『広告効果判定の可能性は・・』
 などいろいろあって、
各広告代理店は出先の営業所ではなく、本社の企画部門のメンバーたちが大勢でやってきたのだが、
当方の質問が厳しくて、
とても素人とは思えないポイントを捉えた質問』と感心されたりもしたのだが、
この代理店選定の面接で『広告宣伝の本質』みたいなものがよく解ったりしたのである。

特に『創造能力の図示・説明』には本職の広告代理店が、ちょっと困ったようだが、
小野田さん曰く『口でいろいろ言えても、ホントに解っていないと図示きない』というのである。
確かにその通りで、簡単に図示することはなかなかムツカシイのだが、
小野田さんは陸士仕込みの『戦略・戦術・戦闘論』などホントに上手く『図示できる』のにはびっくりした。

そんな小野田滋郎さんだったが、広告宣伝が川崎航空機に移り
カワサキ自販も川崎航空機に吸収ということになって、
この年の3月末で辞められたのだが、個人的には私はその後も長くお付き合いがあったのである。


★ こんなことで始まった『広告宣伝課』の新しい職務だったが、
 この1年目は折角頂いた予算1億3000万円の内、7000万円しか使うことが出来なかったのだが、
これは『広告宣伝』と言えば『テレビ・新聞』なのだが、
その『テレビ・新聞』が使えなかったからなのである。
その理由は、当時は『実用車のカワサキ』で東京・関西などの大都会では全く売れていなかったので、
東京・大阪などの大都市は広告は要らない』と営業サイドは言うので、
新聞もテレビも使えないのである。

この1年目の実績に本社の専務から『お前ら金を渡してもよう使わん』と怒られたものだから、
2年目は何とか予算は使い果たそうと

新聞は『朝日・毎日・読売は抜き』で
全国40社以上もある『地方紙』に『全頁広告』を打ったのだが、
これは広告業界では『前代未聞』で『カワサキはとんでもないことをする
と広告業界で評判になったのである。

これは中央紙に広告するよりは費用面では『めちゃ多く掛かる』のだが、
こんなことをしたのは、この年のカワサキだけだろう。

更にテレビも関西地区だけだったが、
当時売り出したばかりの藤田まことを使って

あさん ても んせい めた かわさきと喋らした
15秒のコマーシャルなど作ったので、

   
 
 
 
 2年目は広告宣伝予算はちゃんと使い切ったのである。
 因みに『藤田まこと』さん私と同じ1933年生まれなのである。



★1年目の広告宣伝は、新聞・テレビは使わなかったが、
 結構いろいろと面白いイベントやレースはいろいろやってはいたのである。

 カワサキにとってレースは初めての経験ではあったが、
 関東厚木の『カワサキコンバット』を小野田滋郎さんから引き継いだこともあって、
 広告宣伝課で担当することになった。
 スタートしたばかりのカワサキファクトリーチームである。

 右から、梅津次郎・岡部能夫・山本隆・歳森康師・三橋実・安良岡健
 ここまでが契約選手であとの4人は未契約の『カワサキコンバット』所属の選手で、
 安良岡健の隣が『星野一義』なのである。


 


 契約金は私の年収が40万円の頃だったが、
 100万円以上も弾んだので、当時は結構日本でも高額で、
 他メーカーの選手たちがみんなカワサキに来たがったそんな時代だった。
 三橋実には毎月30万円を若手選手育成費として渡していたので、
 全国から有望選手が集まっていたのだが、
 その中に静岡から星野一義秋田からの金子豊などがいたのである。 

それくらい派手に使っても1000万円ぐらいにしかならなくて、
当時の1億3000万円は今の時代なら10億円を超える額だったのかも知れない。
 
 広告宣伝課ではヘリコプターも持っていて
 モトクロスのレース場などにも帯同したりしたのである。

 下の写真は伊豆丸の山であったMCFAJの全日本モの開会式に
 ヘリでお嬢さんを運んできて『花束贈呈』など派手なことをしていたのである。

 この写真はそのレースで最優秀選手になった山本隆さんの提供です。
 
  

  
 このヘリには各社のライダーたちも乗りたがって、
乗せて欲し』と頼みに来るものだから、
私は他メーカーのチームのライダーたちとも直ぐ懇意になったのである。
特に当時の日本のトップライダー久保和夫・荒井市次さんなどとは仲良くなって、
それは現役引退後も続いていて、
ライダーたちとのこんな写真がいっぱいなのである。


 



★    この時代カワサキのレースライダーはみんないい車に乗っていて
    契約金の殆どが車に化けたのだと思う。
 それぞれこんな車に乗っていたのである。

 三橋実   日産 フェアレデイZ
           
             



   安良岡健  日産 プリンスGTB
   岡部能夫  日産 プリンスGTB

            
             


 山本隆           ホンダS500
 歳森康師  ホンダS500


            


 こんな派手な状況だったので、他メーカーの選手たちは
 一体いくら貰っているのか?と思ったに違いないのである。

 ちょうどそのころ私も運転免許を取ったので、
 よく乗せて貰ったりしていたのである。
 星野一義の最初のクルマはホンダS500なのだが、
 彼はホントに律儀で『車を買ってもよろしいか?
 とわざわざ我が家まで訪ねて来たりしたのである。
 ライダーたち当初は名もない若手ライダーだったのに、
 みんな日本を代表するTOPライダーに育っていったのである。
 

 初年度はレースの他にもいろんなイベントをやっているのだが、
 その詳細は次回に・・・


 

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