★ 私の一生を振り返ってみてもこの年が一番いろいろなことがあった年だったように思う。
それがよかったのか悪かったのかは別にして、
こんなにいろいろ経験することはなかなかないと言っていい。
1月の初出の日に藤井敏雄がやって来た。
カワサキがGPレースに初めて参戦する年なのだが、その契約にやって来たのである。
スズキからの移籍だった。年末のMFJの運営委員会で鈴木さんから社内ライダーの引き抜きは困るというようなクレームが出たのだが、
その時は私はホントに解っていなかったのだが、カワサキの技術部がいろいろ折衝していたようである。
そんなことで彼の移籍には関係していないのだが、ライダー契約は私の担当だったので、契約についてはいろいろと纏めたのである。
先方の希望でその時はライダー契約とはせずに『マシンの貸与契約』にして
約半年ヨーロッパGPに参戦するので、ライダー契約はその成績を見て改めてして欲しいという希望だったのである。
そんなことから始まった1年だったのだが、2月には山本隆から仲人を頼まれるのである。
私自身がまだ33歳で、結婚したばかりなので一応はお断りしたのだが、どうしてもと仰るので、結局は引き受けることになったのである。
世の中にこんな若さで仲人をした方などいないと思うのだが、当時は単なる若手ライダーだった山本隆だが、その後の活躍でMFJの殿堂入りをするようなライダーに成長したので、そんな『山本隆の仲人』は私にとっていい実績となったのである。
★この年は私のレース担当の最後の年になったのだが、
レース関連では本当にいろいろなことが起きたのである。
MFJの運営委員会では日本GPを鈴鹿からこの年に開幕するFISCOに移そうという議案が出るのだが、FISCOの第1コナーが危険だという理由で、ホンダさんは日本GP不参加を決めたのである。
FISCOの第1コーナーがどれ位なものかをMFJの運営委員会で実地検証することになって、4輪車だったがFISCOを何周か走らせて貰ったのだが、確かにあのコーナーは吸い込まれていくようなものスゴイ下りのコーナーだったのを覚えている。
モトクロス関係では、前年にスズキが本格的なモトクロッサーRHを開発し、久保和夫・小島松久の二人が乗ったので、カワサキもと238ccのエンジンで、クロモリのパイプのF21Mを新たに創ったのだが、これは2台などではなく全契約ライダーに当たる数を用意したのである。
まだ当時はレーサーの開発は技術部ではなくレース職場の松尾勇さん個人のノウハウで創り上げていた時代で、ベニヤ板に釘を打ってその形にパイプを曲げていくのだが、そのパイプに詰める砂を海岸で採ってきたような想い出がある。
7月のMCFAJの青森での全日本でデビューするのだが、明石から青森の弘前まで、2000kmを車で移動したのである。
その時の練習時の写真で、真ん中にあるのがF21Mだが、当時はまだ赤タンクの時代なのである。
この年の8月、GPレースでヨーロッパを転戦中の藤井敏雄がマン島のプラクテイスで転倒事故死してしまうのである。
それからが大変でその遺体は、たまたまドイツに留学中の大槻幸雄さんがマン島の現地に行かれていて送って頂いたのだが、それを羽田で受け取ったのが私なので、お通夜・葬儀と続いて大変だったのである。
葬儀もカワサキがいろいろとお手伝いをしたのだが、契約上は先述の通り、マシンの貸与契約なので『個人は関係ない』と言うようなことをいう社内の人もいてなかなか大変だったのだが、貸与契約と言ってもそれはGPマシンなのだからと押し切ったりしたのである。
秋の日本GPには藤井と正規に契約して走ることになっていたのだが、
こんなことになってしまって、改めて契約したのが鈴鹿サーキットに『デグナーカーブ』と名を残すあのデグナーなのである。
カワサキにとっては初めての外人契約で、その契約書をどのように作るのか、社内には聞く人もいないので、
ホンダのMFJの運営委員の前川さんに教えて貰いに鈴鹿まで行ったりしたのである。
そんなことまでして契約したデグナーなのだが、GP前のFISCOでの練習中に転倒して、『カワサキのデグナー』は実現しなかったのである。
この年のFISCOでの日本GPにはカワサキが初出場するのだが、
安良岡健が7位になったのである
ただジュニアの250ccには250A1のマシンが出場したのだが、
このマシンが滅茶苦茶速くて、
当時のヤマハさんは、日本人ライダーではダメだと、
アメリカでの一流ライダーだったガリー・ニクソンを出場させ
金谷秀夫との壮絶なトップ争いをしたのである。
これがその時の写真だが
文字通りの一騎打ちになった本番は凄まじかった。
最高ラップ 2分14秒27 をGニクソン、金谷秀夫の二人で記録しているという珍しいレースで、もっとも印象に残ったレースだった。
最高ラップ 2分14秒27 をGニクソン、金谷秀夫の二人で記録しているという珍しいレースで、もっとも印象に残ったレースだった。
これが私の4年間の最後のレースとなって、
11月には仙台事務所を創るべく仙台転勤の内示があったのである。
★ こんなことでこの年のレース関係では大変な1年だったが、
年末には仙台転勤が決まって、12月からはその対策に掛りきりになったのである。
私にとっては初めて明石を離れての生活となって、
それも仙台と言う雪国だからと、会社の人達は家族は春になってからの移動にしたらと言って下さったのだが、
私は1月の最初から家族同伴と決めて、まずは仙台での家探しから始まったのである。
それも普通の転勤と言うのは、そこにすでに会社の支店とかがあるのが普通だが、
私の場合は『新しく仙台事務所を創れ』と言う命題だけで、
全くの白紙からのスタートなのである。
会社自体も新しく事務所作るなども初めてだったし、今思うとよくやったなと思うのである。
この年の4月に初めて「掛長任用」されたばかりなのだが、
前年からカワサキオートバイ販売出向となっていたので、正規に掛長になる前から『課長』と言うことになっていたし、
今回は『事務所長』と言う肩書を頂くことになって、気分的には非常によかったのである。
そんなことで私は掛長などと呼ばれたことはなく、
平の係員からいきなり課長になり、またすぐ事務所長になったりしたのである。
ただ名前だけのことで、実質の給料などは上がったりはしていないのである。
昭和41年(1966)はこんないろいろあった1年だったのである。