★ 昭和39年という年はカワサキにとっても、私にとっても非常に大きな意味を持つ年だったなと思う。
カワサキが単車の一貫生産を始めたのは昭和35年なのだが、
それからの3年間は発動機事業部の中の一部門として単車があったのだが、
昭和39年1月から単車事業部として独立して、その事業本部長には当時の本社常務だった岩城良三さんが指揮を取られることになったのである。
「隣国の兵は大なり、その武器は豊なり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず」
と常に話の冒頭はこの言葉で始まった。
当時の本社は単車事業を軌道に乗せるため、3年間本社開発費で1億2000万円の広告宣伝予算を取り、広告宣伝課が出来てその課を担当することになったのである。
★ 当時の日記を読み返しているのだが、
1月に単車が独立分離され広告宣伝課がスタート
2月には広告宣伝代理店の選定
3月に広告代理店は大広と決定
4月にはカワサキのファクトリーチームがMCFAJの朝霧での全日本MXに出場、山本隆がオープンで優勝
5月には北海道・東北の代理店訪問をしている。 当時は末端市場は各地の自前代理店が販売を担当していた。
6月にはカワサキの初めての中間車種「85ーJ1」の試乗会があった。
7月には当時映画関係で日活とは密接に繋がっていたのだが、明石日活に挨拶に来ていて当時のスター浜田光夫に声を掛けたら、明石工場にやって来て、テストコースでバイクに乗ったりした。
それを観るために発動機の女工さんのラインが止まってしまったというハプニングもあった。
そんな当時のスター浜田光夫である。
8月にはABCテレビの人気番組「源平芸能合戦」に川崎航空機として出場している。相手は三洋電機だった。
9月には東京モータショー開幕、初日の入場者は17万3000人だった。
10月10日にはMCFAJの丸の山全日本MXで90㏄三橋実・125㏄山本隆が久保・荒井を抑えて、オープンは梅津次郎と3種目優勝を果たした。
因みにこの日は東京オリンピックの開会式当日だった。
11月には和歌山でスポーツニッポン主催の西日本MXの第1会大会があった。
このレースのノービスクラスに初めて星野一義が出場している。
まだ有名人でもないただの17歳の新人ライダーだった。
真ん中が星野、一番左は金子豊、みんな立派に成ったものである。
12月には尾西市であった日活の「花咲く乙女たち」の現場ロケで単車が出る場面があったので出かけている。
★ こんな1年だった。
私は広告宣伝とレースを担当したお陰で、その後の人生が豊かなものになったことは間違いない、
昭和39年はそんなスタートの第1年だったのである。