雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

サギ      雑感

2024-11-06 08:51:21 | 発想$感想

★ 昨日、協同学苑を散歩していたら池に1羽の鷺がいた。

 中央の茂みの奥にいるのだが、





  
 右から廻って、写真を撮ることに成功した。




 
  人に驚いたのかすぐに飛び立っていった。


  
  
  この池には毎年産まれる鯉の稚魚などがいるので、
  それを狙ってやってきたのだろう。

  調べてみたら、三木市でも2008年ごはサギの集団繁殖地が確認されたという記録があるのだが、最近では鷺を見るのは珍しい。


★ 1羽の鷺は珍しくていいのだが、数百匹にもなると、それは困るだろう。
  三木からそんなに遠くではない 丹波篠山市では、2020年7月にムクノキに100羽以上のサギが鈴なりになって大規模なコロニーを形成する様子が確認されたという。

  

  
  鷺もこんなにいっぱいでは大変である。
  巣がある木を伐採するなどの対応をとっても、
  群れは別の木に移り、再びトラブルに発展しているという。

  2020年の話だが、今はどうなっているのだろう。

  1羽の鷺は珍しくていいが、100羽の鷺は大変である。
  それにしても100羽の鷺が生きていけるだけの餌があるのだろうか?




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昭和39年(1964)という年  カワサキ単車の昔話

2024-11-06 05:45:20 | カワサキ単車の昔話

★ 昭和39年という年はカワサキにとっても、私にとっても非常に大きな意味を持つ年だったなと思う。

 カワサキが単車の一貫生産を始めたのは昭和35年なのだが、
 それからの3年間は発動機事業部の中の一部門として単車があったのだが、
 昭和39年1月から単車事業部として独立して、その事業本部長には当時の本社常務だった岩城良三さんが指揮を取られることになったのである。

「隣国の兵は大なり、その武器は豊なり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず」
 と常に話の冒頭はこの言葉で始まった。

 当時の本社は単車事業を軌道に乗せるため、3年間本社開発費で1億2000万円の広告宣伝予算を取り、広告宣伝課が出来てその課を担当することになったのである。

★ 当時の日記を読み返しているのだが、
 1月に単車が独立分離され広告宣伝課がスタート
 2月には広告宣伝代理店の選定
 3月に広告代理店は大広と決定
 4月にはカワサキのファクトリーチームがMCFAJの朝霧での全日本MXに出場、山本隆がオープンで優勝
 5月には北海道・東北の代理店訪問をしている。 当時は末端市場は各地の自前代理店が販売を担当していた。
 6月にはカワサキの初めての中間車種「85ーJ1」の試乗会があった。
  

 7月には当時映画関係で日活とは密接に繋がっていたのだが、明石日活に挨拶に来ていて当時のスター浜田光夫に声を掛けたら、明石工場にやって来て、テストコースでバイクに乗ったりした。
 それを観るために発動機の女工さんのラインが止まってしまったというハプニングもあった。
 そんな当時のスター浜田光夫である。

  
  
 

8月にはABCテレビの人気番組「源平芸能合戦」に川崎航空機として出場している。相手は三洋電機だった。

 

  
 9月には東京モータショー開幕、初日の入場者は17万3000人だった。

 10月10日にはMCFAJの丸の山全日本MXで90㏄三橋実・125㏄山本隆が久保・荒井を抑えて、オープンは梅津次郎と3種目優勝を果たした。


  

  
  因みにこの日は東京オリンピックの開会式当日だった。


 11月には和歌山でスポーツニッポン主催の西日本MXの第1会大会があった。
  このレースのノービスクラスに初めて星野一義が出場している。

  


  まだ有名人でもないただの17歳の新人ライダーだった。
  真ん中が星野、一番左は金子豊、みんな立派に成ったものである。


   12月には尾西市であった日活の「花咲く乙女たち」の現場ロケで単車が出る場面があったので出かけている。


★ こんな1年だった。
  私は広告宣伝とレースを担当したお陰で、その後の人生が豊かなものになったことは間違いない、
  昭和39年はそんなスタートの第1年だったのである。


  
コメント (2)
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