★前年末の12月21日に結婚式を挙げたので、
この年の新年は文字通り新婚生活がスタートしている。
人生で初めて居を構えたのだが、所謂小さなアパートで始まった。
当時はこの辺りはこんなに沢山、家など建ってなくて、
上ノ丸の実家も大きな土地の中に
戦後建てた本家と我が家の2軒だけだったのだが、
ちょっと離れたところのアパートを借りての新婚生活だった。
この年の3月に満31歳になるのだが、
その3月の給料が25900円とある。
別に共働きでもなかったので、よくこんな給料でやってたなと思うのだが、
会社では結構出張が多くて出張旅費などが浮くものだから、
そんなことでやりくりしていたのだと思う。
因みに私は子どもの頃から今まで小遣いなるものを貰ったことがない。
子供の頃は父が『子供は金など持つな』と言って小遣いなどなかったし、
大学時代は引揚者で片親だけということで最高の奨学金を頂いて、
授業料免除でもあったので、給料を貰って大学に行ってたようなものだった。
★会社は新しい事業の単車の2年目なのだが、
最初の車の125B7が散々な状況だったので、この年から125B8が新しく発売されたのである。
2月にそのポスターのための撮影などもやってるが、
これは今住んでいる三木でロケをやっている。
モデルも専門のモデルなどではなくて、会社の女子社員を使っている。
このB8が何となく好評で、特に何をしたというのでもないのだが、
好調に売れたし、
6月には青野ヶ原モトクロスで1位から6位までを独占したりするのである。
ただ、このレース1位から6位まで独占しているのだが、
特にカワサキが速かった訳でもなくて、
当日雨で水溜りがいっぱいで高性能のレーサーはみんな止まってしまって
実用車に近いカワサキだけが止まらずに走り切ったのだと思う。
1位から6位まで独占など、このレースだけだし、
不思議なことに優勝者が誰なのか解っていないし、
どこにも優勝者の記録がないのである。
因みにこのレースがカワサキのはじめてのレースだった。
まさに神様が勝たしてくれたレースだったと思うのである。
このレースには直接関わってはいないのだが、
レース自体が製造部の有志たちで自発的にやったもので、
別に会社は予算を取ったりはしていないので、残業料も出ないし、
営業の上司が『パン代ぐらい出してやれ』と仰るので
営業の交際費から幾らかの金を渡したぐらいのことなのである。
★ この時期は初代のB7が全然ダメだったので、
当時の川崎航空機の本社が日本能率協会に『この事業続けるべきか否か』の
調査を依頼していた最中だったのだが、
青野が原の勝利で社内の意気は上がっていたこともあって、
『この事業続けるべし』という結論が出るのである。
そう言う意味では昭和38年はカワサキにとって記念すべき年だと言っていい。
前年末に結婚して、この年の3月には家内に子供が出来たということが解るのだが、
9月28日に長男古谷大治が産まれている。
子供の名前を付けるのも初めてのことだったが、
何事も大きく治めることが出来るようにと願って大治と名付けたのだが、
私一人の独断で決めたし、そう言う意味では家内は意外に昔気質というか
私のやることに文句など言ったことがない。
そう言う意味では、私は自由にいろんなことをやれたのでよかったなと思っている。
★ この年の11月にカワサキ自動車販売の川崎航空機吸収案が出ているが、
これも多分「日本能率協会の一連の調査の結論」だったのだと思う。
そんなこんなで、この年はカワサキにとっても我が家にとっても
『新しいスタートの年』になった年だった。
日記の中に色々出てくるのだが、
この年は明石海岸での海釣りに凝っていて、
まさに昔流の竿などないただ放り込むやり方だが、
カレイなどよく釣れて40匹あまりも釣っている。
いまと違って、魚がいっぱいいたのだと思う。