★ 川崎航空機に入社したのは昭和32年(1957)だが、会社は戦後の中断の後再開したばかりの頃で、バイクもエンジンだけで完成車はまだ造っていなかった時代である。
いま、その頃の日記を読み返している。
私は業務部財産課に配属されたのだが、財産物件の償却計算と言う業務が毎期行われていた。
こんなタイガー計算機を使って、財産物件の償却計算をするのだが、件数が多いので大変なのである。
2年間はそんな計算業務をやっていたのだが、昭和34年(1959)9月に当時の会計機などを使っての事務機械化に取り組んだのだが、
どうももう一つで画期的なことにはならないのである。
★当時JETエンジン部門のアメリカ空軍が持っていたIBMが使えないかとその研究を始めたのが、翌月の10月のことである。
当時日本にはIBMなどはなかった時代なのだが、アメリカ空軍のJetエンジンのオーバーホールをやっていてアメリカ空軍が常駐していたので、明石工場にはIBM室があったのである。
日本のIBMの歴史を調べてみるとこんな図表が出てきた。
日本に初のIBMの設置が1958年とあり
私がIBMと出会たのはその翌年のことだから、日本の一般社会にはIBMなど存在しなかった時代のことなのである。
日本初のオンラインシステムは1965年三井銀行とあるから、
この話はその5年も前のことなのである。
そういう意味では「日本初」と言えるのだろう。
ずっと後のことだが、IBMの研修に出席して「1960年にIBMでの減価償却計算をやった」と言ったら。
「10年間違っていませんか?日本でIBMがスタートしたのはオリンピック以降です」と言われたのを想い出す。
これは単なる計算機などとは違ってIBMの大型器械を使っての計算なので、
その効果は抜群なのだが、IBMに載せるためには物件名の統一に始まって、そのコード化など非常にムツカシイ作業が要るのだが、
それをやろうということで取り組み始めたのである。
やる限りは明石工場だけでなく、本社も岐阜工場も巻き込んでの「全社統一方式」にしようと、新人社員ながら本社と岐阜工場を巻き込んでの「一大プロジェクト」にしたのである。
ホントによくやったなと思う。
翌年3月22日に岐阜工場に出張してるのだが、岐阜の係長さんが、「古谷さん、よく研究してるなと」2度も仰ったと日記に書いている。
このIBM化は川崎航空機の民需部門では初めてのことだったし今思うとよくやったなと思う。そのシステムの完成までにはちょうど1年掛るのだが、見事完成することが出来たのである。
★ これが財産物件のIBM用カードで、償却計算に必要な項目が網羅されている。
ちょっと詳細に触れると1枚のカードの桁数約100桁の中に必要項目を網羅しなければならないので、その「コード化」は大変な仕事なのである。
そしてこれがIBM室への連絡票である。
こんなカードが日記に挟まれていたので、こんな話をアップする気になったのである。
★ この結果、業務部財産課はどうなったか?
いままで償却計算のためにいたと言ってもいい女子社員を含め10名ほどの課員だったのだが、償却計算の時間が無くなって人員が余ってしまい、半減することになったのである。
その減員の中の一人が私自身で、私は新しく出来た単車営業課に
昭和36年12月に異動し、新しく始まった二輪事業の担当になったのである。
この「償却計算のIBM化」は当時の社内でも結構な話題になり、
その後の「給与計算」「会計処理」などのIBM化が進むのだが、新人ながらその教師役を務めたりしたのである。
財産課も人員が半減したが、給与計算などは大勢いた女子社員がいなくなってしまったのである。
いま改めて思うと、新人ながらこれは結構な大仕事だったなと思うのである。